氷川竜介ライブラリー

このページでは、アニメと特撮の理解や研究に広く役立てられることを目的とし、
ATAC副理事長でありアニメ特撮研究家の氷川竜介が、過去に執筆した論稿や記事、トークや講演採録などの一部を公開します。
※数本ずつ随時公開していきます
※初出は文頭または文末に記載しています
※文中に記載している各種の情報は初出掲載当時のままです

現実世界とファーストガンダム  第12回(最終回)「アフターTV」総括

2022.9.30

【2006年12月5日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

1980年1月26日、『機動戦士ガンダム』TVシリーズの放映は終了した。それ以後の動きを1980年の流れを中心として総括的に述べることで、本連載の締めくくりとしたい。

まず、「ガンダムは本放送では不人気だった」とマスコミに書かれがちだが、それは事実と異なっている。テレビシリーズの終盤近くでは、すでに中高生を中心として人気が確立していた。1979年12月20日にはサンライズからハードカバー上製本の「ガンダム記録全集」(全5巻)が発刊され、放送終了直後の1980年3月21日にはドラマ編アルバム「アムロよ…」(キングレコード)がリリースされているのが何よりの証拠である(アルバムは筆者の構成だが、セカンドアルバムがヒットしたので最終回以前から作業はスタートしていた)。放送終盤、かなりガンダム熱が盛り上がっていた証拠はいくつも存在する。

玩具商戦の不振により1年(全52話)の予定から全43話へ放映期間が短縮されたのは事実だ。当事者がこれを「打ち切り」と言うのは無念をこめての表現だからやむを得ないが、外部から見た場合は留意が必要だ。なぜならば同じ名古屋テレビの時間枠の流れでは『無敵超人ザンボット3』(’77)が全23話、『無敵鋼人ダイターン3』(’78)が全39話と、前2作の放送期間はいずれも1年に満ちておらず、実は『ガンダム』こそが3作で最長なのだ。年末年始商戦は乗りきったから「全43話まで引っぱった」のであり、物語的にもきちんと終わらせている。筆者は「放送期間短縮」という言い方をするようにしている。

1980年2月2日からスタートした後番組は、徹底した子ども向け路線の『無敵ロボ トライダーG7』(監督:佐々木勝利)である。これは中小企業の社長で小学生の竹尾ワッ太を主人公に、業務のためロボットに乗るという児童の夢をかなえるような設定の作品であった。この番組枠で念願の1年間の放送期間を成就し、以後は4クール構成がずっと続いていく。

ガンダム終了直後の富野由悠季監督は『トライダーG7』、『ザ・ウルトラマン』、『宇宙大帝ゴッドシグマ』などの作品に絵コンテで参加し、5月8日スタートの新番組『伝説巨神イデオン』を立ち上げている。宇宙の植民星に突然異星人バッフクランが襲撃、第6文明人の遺跡と思われたものが変形合体してロボットとなって戦い、ソロシップという宇宙船で避難民が追っ手から逃げるという物語だ。無限のエネルギー“イデ”を巡って争いが争いを拡大するシリアスなSF戦争ものとして、今風の言い方をすれば「ポストガンダム」として注目された。

イデオン放送と平行し、『機動戦士ガンダム』は再編集をベースとした劇場映画化への道をたどり始める。ハイターゲット向けビジネスモデルに先鞭をつけた『宇宙戦艦ヤマト』のブームも、1977年にTVシリーズ全26話を2時間半に再編集し、映画化したことがきっかけだった。「ガンダムも映画化を」というのは当然の筋道だが、ヤマトとは大きく異なる挑戦がここに生まれる。それは、オリジナルの印象を損ねないよう、三部作の長尺で公開するというリスクの大きい大胆な構成であった。当初は四部作構想が雑誌「アニメージュ」(徳間書店)に発表されたが、三部作となったのは『スター・ウォーズ』の影響であろう(同タイトルの公開第二作『帝国の逆襲』は1980年の公開)。それほどスタッフはTVシリーズに自信と愛着をもっていたし、なるべく「ファンの愛したもの」に近いものを映画として届けようとしたわけだが、これが後々大きな意味をもつようになる。

映画化に際してはオリジナル要素を尊重することと同時に、さまざまなかたちで増補改訂が行われている。映画的な時間の流れを重視し、複数イベントをまとめてストーリーラインを主人公のアムロ中心に寄せて再構成している。さらに玩具セールスの枠組みから離れたことで、武器・兵器設定を修正してリアルな語り口に近づけた点も大きい(ガンダムの活躍シーンも、量的・質的に抑制されている)。作画面では、TVシリーズを途中で病気降板した安彦良和の回復を待ち、大幅な修正や追加が行われていった。特に第二作「哀・戦士編」からは「撮り足し」に相当する新規シークエンスが増え、斬新さも加わっていった。

放送終了後では異例のこととして、第2の玩具展開がバンダイによってプラモデルというかたちでスタートした(同年7月)。当初は「ポストヤマト」的に、ムサイやホワイトベースなど戦艦類が本命と思われたが、意外にもガンダムやザクが大ヒッする。しかも合体ギミックをオミットして可動とプロポーションを重視した1/144ガンダムが爆発的に売れたことで、まったく新規の市場があることが判明する。

なんと言ってもプラモデルは合金玩具と違い、「塗装」「改造」によってユーザーがオリジナリティを発揮できる点が大きな価値を生んだ。すでに大河原邦男が豪華本やムックに発表したイラストには、アニメーションでは表現困難な渋い戦車のような色合いやマーキング等のディテールが描かれていた。これがミリタリー系モデラーの制作意欲を刺激したのである。こうした経緯で、プラモデルという2次的な表現媒体が「ガンダム世界観を補完・拡張する」という作用をもたらし、ガンダムは前例のない「ユーザー参加型コンテンツ」に育っていったのである。

1980年9月5日には本格的クラシック編成にアレンジしたアルバム「交響詩ガンダム」がキングレコードからリリースされ、ガンダム音楽の魅力を拡大。また、アニメムックを中心に関連書籍が発売され、プラモデルについても改造例や未商品化のフルスクラッチ作例が続々と模型雑誌に掲載されていったことで、『ガンダム』人気は沸点に近づいていった。

すべてのムーブメントが1981年2月22日、新宿ALTA前広場に1万5千人のファンを集めての「アニメ新世紀宣言」で一気に集約し、そして1981年3月17日――満を持しての映画公開へ向けて加熱するように動いていった。ファンが長蛇の列をなす動員のすごさはマスコミにも大きく報じられ、ブームの起爆剤となっていく。

こうしたTV放映後の1年余りの動きをみるときには、フィルムも二次の世界(出版や模型、音楽)も、すべて同調しながら「ガンダム」という新たな要素に接し、自ら新たな要素を発信しながら、「ガンダム世界」の自律的な拡大の基礎を築いていったことに注目してほしい。こうしたなかば無意識的な同調による開拓の連鎖こそが、当事者のひとりでもある筆者にとって重要であった。

総じて言えば、ガンダム文化が40年近くも続いてきたことに関する要因は、概してこの1年間にルーツを見ることができる。そしてその時点では『ファーストガンダム』が決して完成形ではなく、大勢が参加する余地があったことを、強調しておきたい。

多くの初期支持者が、特に言葉を交わさないのに互いにフィードバックを重ねながら、自然にわかりあっていた。時に対立することがあっても、対立のベースは共有していた。そして自己増殖可能な形で刺激しあい、常に進化し続け、ともに成長するスキームを自然発生的に獲得していったのである。「送り手と受け手」が共振し、ともに手探りの中で『ガンダム』に関する共通認識を獲得していく……このプロセス自体が、フィルムを離れて現実世界との間で起きる「もうひとつのドラマ」だったと、振り返って思う。それは「現実世界でのニュータイプ的な出来事」と換言することも可能ではないだろうか。

この連載では、放映当時の状況について現実世界と多角的にリンクさせながら述べてきた。それは当時、そうした多面的な状況が随所にあり、それが有機的に積み重なって「現在にいたるかたち」になるプロセスを、筆者がリアルタイムで目撃してきたからだ。すべての様相を伝えるのは難しいが、少しでも今に役立てるかたちで伝えることには、意味があると思った。

現在、非常に莫大な価値と富を生み出す『ガンダム』は、だが、決して「優良コンテンツありき」で発進したものではない。むしろマイナーで無視され踏みつけられ、「こんな前例にないものは売れない、悪だ」とまでされるような、常人ならくじけてしまうような「どん底の状況」があった。それでもともに信頼し成長する関係性を獲得し、それを信じる人たちの中で育てられ、時間をかけて華開いていったというプロセスが、そこに確かに存在した。

こうした「現実世界とも地続きとなったニュータイプ的世界観」が「ガンダム的なコンテンツ」の正体である。

そんな奇跡的なプロセスに至るメッセージとヒントは、原点のTVシリーズ『機動戦士ガンダム』の随所に埋めこまれている。受け手それぞれが社会的な役割をはたす中でさらなる成長を望むとき、このフィルムは格別の味わいとともに多くのことを改めて語り、気づかせてくれるだろう。心いくまで何度でも楽しんでほしい。観るたびに新たな発見のあるフィルムは、そうそう他にないのだから。

この関係性の価値が多くの人に伝わり、次なる進化を始めたときに『ガンダム』は初めて「古典」としての不朽のポジションを獲得できるに違いない。

【完】(敬称略)

 

現実世界とファーストガンダム   第11回 ファン活動と設定主義

2022.9.30

【2006年11月29日脱稿・2017/06/05加筆修正】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

 

『機動戦士ガンダム』が児童向けのロボットアニメでありながら内容が中高生向けとなった成立を考える上では、1974年の『宇宙戦艦ヤマト』によって「アニメファン」と呼ばれる新ユーザー層が確立したことの影響が無視できない。何より『ヤマト』が劇場映画として大ヒットした原動力は、放送終了後も熱気を持続していた全国のファンクラブ活動とその組織化された応援によるものであった。

『ガンダム』を新企画として立ちあげるとき、「受け手あっての作品」という意識、つまり「ファン活動を誘発するようにしたい」という想いは、大前提としてあったはずである。特に初期のほうには、ファンの存在を意識した部分が多々確認できる。たとえばシャアは、企画段階では『勇者ライディーン』で人気の仮面キャラクター「プリンス・シャーキン」を前提にしていると、多くのファンは受け止めた。シャーキンは女性ファンに人気の「美形キャラ」の元祖的な悪役で、「富野監督+安彦キャラ」でもあるから、シャアは実に正統な後継に見えたのだ。

シャアは地球に降下してから友人ガルマにコンタクトする。アニメの同人誌文化では「アニパロ(アニメパロディ)」という2次創作が主流だが、中でも「男性×男性」という構図は中核になり、現在では「ヤオイ」と呼ばれるジャンルを形成している。「シャア様・ガルマ様」は本放送時、女性ファンにヤオイの先駆的な人気を呼んだのである。アニパロは「月刊OUT」(みのり書房/現在休刊)で商業誌にも進出し、2人を「猫」に見立てた浪花愛の『シャア猫のこと』は大人気となる。現在、同人誌文化では「キャラの猫化」がひとり歩きしているが、そのルーツもこうしたところに見ることができる。

このように『機動戦士ガンダム』には、女性アニメファンをターゲットとして想定した部分が少なからず存在し、サンライズ直販の「機動戦士ガンダム記録全集」にもそうしたファンレターや差し入れグッズが多数掲載されている。確実な反応がそこにはあったのだが、やがて「男性中心の文化」であるような変化を遂げ、過去にさかのぼって最初からそうであったような錯覚を生じさせている。

そうした変化の原因のひとつは言うまでもなく「ガンプラ」による模型文化である。そして、もうひとつ原因がある。それは「設定主義」的なムーブメントである。そこにもやはり同人誌を原点とした活動が大きな作用を及ぼしている。

2次創作の「アニパロ」とは別の同人誌のジャンルとしては、「研究・評論」がある。これはアニメーション制作用の作画設定資料の掲載や、インタビュー、評論などを記事の中心としたもので、『ヤマト』当時から存在した。そこには用語事典や、設定の疑問点にファンが科学考証をつける記事も掲載されていた。『ガンダム』ではそれとはやや傾向と姿勢が異なり、映像を解釈して設定を後から裏づけすることで「世界観」の補強にまで高めようとする文化が出現した。その代表格が同人誌「Gun Sight(ガンサイト)」であった。

『ガンダム』がR・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦士』に登場するパワードスーツにヒントを得ていることは有名だ。その小説の文庫版(早川書房)でイラストを担当したスタジオぬえは「SFを総合的に仕事にする」会社で、日本サンライズ(当時)のブレーンも担当していた。ぬえのメンバー松崎健一がシナリオライターとして『ガンダム』にも参加していたため、科学考証、SF設定という特別な役職は存在しなくとも、脚本を介して「ぬえ的考証」が作品に影響を及ぼした部分が多々生まれたのである。スペースコロニーをレーザー砲に改造するアイデアなども、その一例であった。

そして“Gun Sight”には、スタジオぬえ所属または関係の深い河森正治、美樹本晴彦、大野木寛、森田繁ら、当時20歳前後の若手が多く参加していた。『超時空要塞マクロス』(’82)でやがて活躍する彼らはまだ無名時代である。SFファンとして仲間とスペースコロニーやミノフスキー粒子の科学的考証などを行い、同誌で発表。その成果は『ガンダム』劇場公開でブームが盛り上がる1981年夏、「OUT9月号増刊 GUNDAM CENTURY 宇宙翔ける戦士達」というムックとなって登場したのであった。

その奥付には「企画:松崎健一/スタジオぬえ(宮武一貴、河森正治)/大徳哲雄(みのり書房)、設定解析:河森正治、協力:“Gun Sight”」とクレジットされ、美樹本晴彦(良晴名義)もイラストを提供している。このムックで“Gun Sight”誌を中心として、アニメック誌(ラポート発行)等で先行していた科学的・軍事的考証も含めて「世界観設定」として整理統合されたと言える。中でもミノフスキー物理学とその応用のIフィールド、コロニー落としを「ブリティッシュ作戦」と呼称する等の記載は、後年のフィルム作品にも公式として取りいれられている。そうした設定は、この時点で確立したものであった。

さらにこのムック用のメンテナンスハッチを開放したガンダムのイラストは、短い時間差でホビージャパン誌の模型作例の題材に使われ、増刊号「HOW TO BUILD GUNDAM 2」の表紙を飾っている。ムックを飛び出し、ガンダムワールド全体を変革した点では、MSV(モビルスーツ・バリエーション)と同等の機能をはたした。こうしてフィルム外へ実体のある立体物として飛び出したモビルスーツは、読み返しできるムックによる文字・イラスト設定というバックボーンを得て重みを増し、相互作用をもたらす。劇場映画や再放送でフィルムに対峙するときの感動にも、絶妙なスパイスを加えてくれるものとなったのだった。クリエイションにつながったという点でも、ガンダム以前のあり方とは違うムックとなったのだ。

『機動戦士ガンダム』というフィルムは「リアルな考証に基づいて作られた」という錯覚をされがちだ。しかし、実は受け手のファン側から始まった設定文化が送り手の予想を超える裏づけをあたえ、厚みを加えていったというのが、より正確な流れなのである。「ガンダム文化」の成長に、送り手と受け手のこうした共鳴関係があったことは、原点確認の上で非常に重要ではないだろうか。(敬称略)

———————–

【BONUS】

※外して残していた文章パーツですが、氷川からの証言として付記しておきます。

筆者が近年取材時に聞いた話でも、富野監督は「制作現場やアフレコスタジオに女性ファンが大勢来るようになっていたため、彼女たちが望むような最終回にしなければと思っていた部分がどことなくある」(趣意)と語っている。また安彦良和もかつて1980年ごろ、まだコスプレという言葉さえ確立していない時期に、「(コミックマーケットで)ホワイトベース乗組員の格好をした人を見かけますよ」と伝えると、「実は、簡単にその辺の服(体操服?)をアレンジすれば、着てもらえるかなということもあって、ああいうデザインにしたんだ」(趣意)と、嬉しそうに語っていた。

現実世界とファーストガンダム 第10回 ガンダムのパワーアップと路線変更

2022.9.30

【2006年11月27日脱稿・2017年6月5日加筆修正】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

 

「コア・ファイター、コンビネーション! ガンダム・イン!」

これは『機動戦士ガンダム』の本放送後半から流れたクローバー製の玩具「ガンダムDX合体セット」のCMで、子役が叫んでいた合体キーワードである。もちろん本編中では「技の名を絶叫する」という「ロボットアニメのお約束」は禁じ手であった。「合体」も「換装」と軍事的な用語に置き換えられていたほどだったが、CMでスーパーロボット的ガンダムが出現することで、30分番組の全体では「リアル&ヒーロー」の二重構造をとっていたというわけだ。

放送終了から約半年たった1980年7月、ガンプラ(ガンダム・プラモデル)がバンダイから発売される。このCMはそのころ再放送に合わせ、まだ流れていた。前回述べたように「ガンダム=合金玩具」というビジネスは本放送末期に立ち上がり、放送が終わっても継続していたのである。プラモデル単独になるのはかなり後、おそらく劇場版が終わる1982年初頭ごろで、立体物でも「リアル&ヒーローの二重構造」が発生、どちらが本命かはしばらく分からなかったのである。

本放送中は第23話「マチルダ救出作戦」と第24話「迫撃!トリプル・ドム」の2話分を使って、パワーアップ玩具の商材に合わせた物語を描いている。その結果、マチルダ中尉がガンダムのパワーアップ用メカ「Gファイター」をホワイトベースに届けるのと同時に、セイラがその意志に反して新メカのパイロットに転向することになった。第16話「セイラ出撃」で一度ガンダムを操縦しているので、それほど不自然ではない。そして「黒い三連星」の新型トリプル・ドムとの激戦の中でマチルダが命を落とす悲劇と連動し、パワーアップメカの重要性は視聴者の心に深く刻みこまれるというプロットだ。物語性と商品価値を連動させる、プロとしての努力が色濃く反映しているのである。

Gファイターは前後に分離してガンダムのボディを鎧のように包みこむことで、全体が「Gアーマー」となる。これは敵側ジオン公国軍がモビルアーマーを戦場に投入してくる時期とも歩調を合わせ、概念的にも共通性をもつものだ。そしてパワーアップしたガンダム活躍の描写は、戦闘の激化や敵兵器のデザインの怪物的エスカレーションに対応するものとして、視覚的にも納得性をもたせるよう留意されている。前後に分離したGメカはガンダムのパーツと組み合わさり、Gスカイ、Gブルなど何種類かの変形・合体を行う。これが中盤のガンダムの戦闘シーンにバリエーションを与えている。

Gメカ登場とほぼ同時期に、物語の方向性にも微妙な「路線変更」がしかけられている。たとえば当初、ジオン公国軍側の人型兵器はザクのみで、その強化型としてのグフが出現する程度であった。これはロボットアニメのルーチンと化していた「毎週敵側の怪獣ロボットが出現し、それを主役ロボが必殺技で倒す」というウルトラマン的定型を崩すことにつながった。だがドム以後は、毎週のように新型メカが登場するようになる。映像表現的にもゴッグ出現シーン(第26話)のように、まるで「怪獣映画」のような描写が頻出しているし、設定的にも「モビルアーマー」という巨大兵器を登場させて、ボリューム感を増している。これらはいずれも作品のルックを既存のヒーロー路線に近づけ、児童層への訴求を促進しようというスポンサー要請に応えるものであった。

こうして対象年齢層をやや下げる路線変更が進展していったが、リアリズムをベースにした作品の世界観はギリギリの線で守られている点に、スタッフの矜持が感じられる。物語は終盤にかけ、「ニュータイプ」を中心にして革新的な終幕に着地すべく進んでいく。放送短縮の事情もあって若干説明不足のまま、高密度でハードさが増していく物語展開と平行し、新型機動兵器が次々に出てはガンダムがこれを迎撃する様相は、異様な迫力を生んでいる。TVシリーズが長い時間とともに進化していく「生き物」であり、ライブ感覚がみなぎっているからこそ面白いという原点を再確認させてくれるものでもある。

TVシリーズは後年、劇場版含めてさまざまなかたちで語り直された一年戦争の物語のように、決して整ってはいない。だからこそ逆に「勢い」も感じられる。やや邪道かもしれないが、そんな楽しみ方もできるのだ。中盤から後半、多種多様な機動兵器が活躍したからこそ、ガンダムプラモデルがヒットしたとき、結果論的だが商品展開を豊かにすることもできた。そう考えると、今日に至るブームの下地はこの拡大的な路線変更のとき仕込まれたものと見ることすら可能だ。

パワーアップメカは、それ自体も物語の進行にも大きく根を降ろすこととなった。特にセイラやスレッガーのドラマは、Gメカありきで転がっているものが多い。だから劇場版では新メカの「コア・ブースター」に読み替え、玩具色を薄めて新メカを物語に登場させざるをえなくなった。作品とはまるでパズルのように、多種多様なものが有機的に絡みあって成立しているものである。ひとたび完成してしまえば、それなりのバランス感が生まれる。一箇所でもピースを抜くと、逆に全体の味が損なわれてしまうような性質をそなえている。

『機動戦士ガンダム』は一本スジが通った優秀な作品と見られがちではあるが、実はそうとも言えない柔軟性をそなえている。それは、さまざまな立場からのさまざまな願いが集まってきて、作品というひとつの「かたち」に結晶化されているからなのだ。だからこそ全体が多くの観客の気持ちを受け止めることができて、それぞれに魅力を提示することも可能となったのではないか。

こうした実像の一端は、パワーアップと路線変更のもたらした様相の変化を追うことによって、理解できるのである。

(敬称略)

現実世界とファーストガンダム  第9回「初期のメイン商材、合金玩具」

2022.9.30

【2006年11月14日脱稿・2017年6月5日加筆修正】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

『機動戦士ガンダム』は「ロボットアニメ」というジャンルに属している。1979年当時、このジャンルは玩具メーカーがメインスポンサーとなり、オモチャを売るために番組企画と制作が成立するのが一般的であった。

第3回で述べたように、こうしたビジネススキームの成立は1972年末放送開始の『マジンガーZ』までさかのぼる。同作が『ミラーマン』の後番組という事実からも「特撮変身ヒーローをメカに変換したものが操縦型の巨大ロボットヒーロー」という構図がわかる。ただし、当初玩具はあくまでも作品(フィルム)をベースにした2次商品であった。

ところがやがて商品展開上、「ロボットであること」が変身ヒーローと決定的に異なるバリューをもっていることが判明していく。作中、マジンガーZの装甲は「超合金Z」と設定されている。これにヒントを得てミニカー玩具と同じダイキャスト鋳造法による亜鉛合金製のロボットを「超合金ブランド」で商品化したところ、大ヒットしたのである。合金玩具自体はミニカーですでにユーザーに受けいれられていたが、それを人型のヒーローに応用したところ、作中で活躍するロボットのイメージと合致していること、金属製で壊れにくいこと、そしてずっしりと手応えのある重みに、新たなる価値観が発生したのである。

『マジンガーZ』の玩具はさらに劇中のギミックも機械的に忠実再現し、商品価値を高めていた。腕はスプリングで飛んでロケットパンチを再現、飛行メカ“ジェットスクランダー”などオプションパーツの装着など、後にデファクト・スタンダードとなるプレイバリューを多数備え、アニメのシリーズ展開に合わせた「パワーアップ構想」と連動させていた。こうした商業的開拓と成功をふまえ、ロボットアニメがジャンルとして確立したのであった。

この新生ジャンルはメイン商材となる主役ロボット自体のデザイン・機構の開発を進化させていく。たとえば当初、アニメーションの特質であるメタモルフォーゼ(作画的な変形)で描かれていた「メカの合体」も、玩具化を前提にした実現可能性を含んだかたちに進化していった。こうした「変形・合体」のルーツは、1966年(日本の放送年)の英国人形劇『サンダーバード』で好評を博したメカニズムにある。それを発展的に取りいれ、「人型」にすることでロボット玩具は児童層におおいに訴求したのである。

その機運がもっとも盛り上がり、作品数的にもピークを迎えるのは、1975~1976年ごろであった。この時期、ロボットアニメには「主役メカ」という言葉が用意されるようになった。それはエンドユーザーが玩具として手に取ることになるロボットのほうが、人間の主人公を上回る「主役」ということを意味する。つまり、商業的な観点ではストーリーやドラマの方が2次的になっていったということだ。逆にそれが「ロボット玩具が売れれば自由にしていい」と「オリジナル」を極めることにつながるから、一面的に否定することはできない。

『ガンダム』の企画は当初ロボットから離れ、「十五少年漂流記」をイメージした宇宙ものとして進められていた。だが当時のスポンサーだったクローバー社からの強い商業的要請で、従来どおり主役メカをロボットにすることが決まる。そして具体的な商材としては後にブームとなるプラモデルではなく、やはり当時の主流だった合金玩具となった。本放送当時の玩具は「児童向け」という狙いどおり、「オモチャ化」されている。ボディの白い部分には合金の地が目立つよう銀色が配され、子どもが粗雑な扱いをしても大丈夫な堅牢性のある体型で直立不動、腕はスプリングで飛び、肩には玩具専用のミサイルを装着している。リアルを追求したプラモデルを見慣れた現在の目で見ると軽いカルチャーショックを受けるが、それは時代の必然でもあった。

玩具的プレイバリュー(遊ぶことによる商品価値)は「変形合体」の両方をそなえている。そのうち「変形」はコア・ファイターが受け持ち、機種と翼を折りたたんでコア・ブロックとなる。企画時には「マッチ箱」と呼ばれていたが、ブロックを垂直に立て、上半身・下半身を接合するのが「合体」としてのプレイバリューとなる。

前2作の『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』の大ヒットを継承すべく、「3」もマジック・ナンバー的に扱われている。『ガンダム3』という仮タイトルの残った企画資料も現存しているが、ガンダムの「3」は「ガンダム、ガンキャノン、ガンタンク」の3機を意味していた。つまり上半身3種×下半身3種で9種のロボットに変形可能というのが目玉となるべきプレイバリューで、「上半身ガンダム・下半身ガンタンク」という遊び方ができるのである。

しかしこの機構には無理があったのか、フィルムには登場していない(映像としては90年代になって、ゲームで再現された)。玩具としても現実には低額商品の一部に採用されただけで、主流の合金玩具はあくまで単体で遊ぶものとなった。そして、従来のロボットアニメの枠組みを大きくはずれた作品は、児童層には容易に受け入れられず、合金玩具商戦は苦しいスタートを切ることになる。放送末期、作品人気の上昇とともにようやく玩具も売れ始めたが、すでに放送短縮は決まっていた。商材的にもさまざまな「ズレ」を内包しながら『ガンダム』の歴史は進んでいくが、それもまた作品の「画期的な新しさ」がもたらしたものだったのだ。

(敬称略)

現実世界とファーストガンダム  第8回「オリジナルアニメとドラマ主義の発展」

2022.9.23

【2006年10月17日脱稿分に加筆】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

 

TVアニメ『機動戦士ガンダム』の大きな功績のひとつに、漫画や小説など既存の「原作」をもたないオリジナル作品の可能性を切りひらいたことが挙げられる。元来、TVという媒体は電波それ自体が「地域と時間を支配する」という非常に高いバリューをそなえているため、放送される番組にも高い商業的価値が要求される。半世紀を超えるTVアニメの歴史を通じ、伝統的に「原作つき」のTVアニメが多いのも、すでに売れた実績があって価値が認められた企画のほうが通りやすく、ビジネスにも結びつきやすいためである。

作品それ自体がDVDやBlu-rayなど直接的な商品となる現在、TVを通じてオリジナルアニメが流れることは珍しいことではなくなっている。だが、それも『ガンダム』の商業的成功に負う部分が大きい。まだプラモデルというヒット商品が出ていない本放送当時、そのオリジナリティへの評価はまず「ドラマ部分」から始まった。

では、その「ドラマ主義」とも言えるオリジナルアニメへの道筋とは、どのようにして開拓されてきたものなのだろうか? その探究には、原作・総監督を担当した富野由悠季がたどってきた履歴を考えることが重要となる。

富野監督が最初に手がけたアニメ作品は虫プロダクションの『鉄腕アトム』(63)で、ストーリー性のある初の30分TVシリーズである。長期にわたる放送の2年目後半になるとすでに手塚治虫による原作は払底し、シナリオライターや演出家によるオリジナル作品が中心となり始めていた。その2年目から参加した富野の演出デビュー作の第96話「ロボットヒューチャー」もそうした作品のひとつで、脚本・演出を同時に手がけている。これは予言的な能力をもつロボットの悲劇を描いたエピソードで、深読みが許されればニュータイプにも通じる部分をすでに描いている。

このようにして出発点においてオリジナル開発の面白さに目ざめた富野監督は、機会さえあればオリジナルのドラマを紡ごうと思ってきたはずである。その姿勢は同じ手塚治虫原作の『海のトリトン』(71)で顕著になる。このTVアニメは「原作を改訂してもいい」という前提で富野由悠季がチーフ・ディレクター(総監督に相当)を担当。その最終回は、驚愕の逆転ドラマ展開で当時の視聴者の心に斬りこみ、重い感銘を残した。それまで悪だと思われていたポセイドン族側が実は被害者であり、主人公のトリトンは意図的ではないとはいえ、その一族を全滅に追い込んでしまう。この「ジェノサイド的な重み」もまた、『ガンダム』の戦争に通じるものだ。

60年代から70年代にかけ、富野由悠季は絵コンテマン・演出家として数々の作品に携わる。中でもオリジナル作品の追及において『ガンダム』への影響大と思われるのは、竜の子プロダクションによる一連の作品だ。『科学忍者隊ガッチャマン』(72)と『新造人間キャシャーン』(73)『破裏拳ポリマー』(74)など等身大ヒーローの活躍する一連の作品群は、いずれもTVアニメ用のオリジナル作品で、富野が各話演出のローテーションに入っている(多いときは約4本に1本)。竜の子プロ時代の中村光毅の美術、大河原邦男のメカとの出逢いもあったはずだし、SF的で大スケールを備え、時として挽歌的な世界観で展開する濃厚なドラマの可能性を、各話演出の立場ながら見ていたはずだ。

さらに富野由悠季は1975年にはサンライズの前身である創映社サンライズスタジオで『勇者ライディーン』の総監督を担当する(シリーズ前半、後半は長浜忠夫が担当)。あらためて安彦良和の美麗なキャラクターと作画を得て、ファンタジー的な独特の世界観とロボット戦闘を展開した同作では、玩具メーカーと組んだTVアニメ用オリジナルアニメの開発を経験している。

こうした遍歴が総合的に結実したのが、サンライズ最初の自社作品『無敵超人ザンボット3』(77)であった。富野由悠季はこの作品から総監督だけでなく「原作」とクレジットされるようになる(鈴木良武と連名)。本作では宇宙人が侵攻してくる異常事態を「戦争」に近しいものと規定している。巨大ロボットとメカ怪獣が対決すれば両者ともに人家を破壊し、焼け出された人間が難民化する。さらに最終回では『トリトン』の再演的に善悪を相対化し、人間の側に刃をつきつけるというドラスティックな作劇を行った。「そこに正義はない」という驚くべき現実認識に基づいたロボットアニメの具現化に、青年、大人へと成長しつつあったアニメファンの側も、オリジナルの可能性を見たのである。

『機動戦士ガンダム』のもつ求心力は、こうした数々のドラマ主義的な諸段階を踏まえたものなのだ。しかも一歩ずつ確実な手応えとともに培われたもので、決して突然出てきたものではない。その追求には「既存原作をもたないオリジナルの可能性」への厳しい姿勢が共通してあったと言える。

付け加えれば、富野由悠季が絵コンテで参加した『アルプスの少女ハイジ』(74)や『母をたずねて三千里』(76)といった名作アニメも、この件を考える上で重要である。高畑勲監督の演出、宮崎駿による場面設定(レイアウト)により、リアルな空間とディテール豊かな時間の積み上げによって、生活感あふれる日常描写や人物造形、感情の推移をTVシリーズでも描くことが可能であると実証された作品だからだ。その表現技術と姿勢が、『ガンダム』にも多々継承されているわけである。そして『ガンダム』放映中も、高畑監督の『赤毛のアン』の4本に一本は富野コンテである。

『ガンダム』の特徴は「ロボットをモビルスーツという兵器と捉えなおし、リアルな戦争を描く」と、よく言われている。しかしこのように展開してみると、連綿と続いてきたアニメとしてのオリジナル追及、ドラマ主義の積みかさねの果てに獲得された結実であることがわかる。特に劇場版ではなく、TVシリーズ『ガンダム』の方が「オリジナルの血脈」がより生々しく浮かびあがるはずだ。

時にこのような歴史的文脈を念頭に置きながら、『ガンダム』の体現しているオリジナリティの示すもの、あるいはいまだ実現されていない可能性に、ぜひとも注目してほしい。

(敬称略:「富野喜幸」は現名義の「富野由悠季」に統一してあります)

 

現実世界とファーストガンダム  第7回 アニメ音楽の世界と機動戦士ガンダム

2022.9.23

【2006年9月19日脱稿・2017年6月5日加筆修正】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

 

1979年4月からオンエア開始された『機動戦士ガンダム』は、最初は玩具セールス主眼を打ち出していた。それゆえ他のロボットアニメとどう違うのか、画期的な点の認知度は低かったと言える。関連商品も児童向け中心からスタートしたが、本来のターゲット層である中高生に訴求した最初期の商品のひとつが、6月にキングレコードから発売された音楽集のアルバムだった。

映画のための音楽は現場的には「劇伴(劇につける伴奏)」または「BGM(背景音楽)」と呼ばれ、商業的には「サントラ(サウンドトラック)」という分類である。アニメーションの情感と音楽には歴史的に密接な関係があるが、「児童向け」という固定観念からアルバムが出ても大半は「歌」中心だった。「BGMはモノラル録音でインストゥルメンタルのため商品価値に乏しい」とされていたのだ。しかし先行する『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』では、宮川泰によるステレオ録音のサントラ盤が中高生向けに大ヒット商品となって時代を変え始めていた。そしてガンダムのアルバム発売も、大きな期待に応える充実したものとなった。

『ガンダム』の音楽は渡辺岳夫と松山祐士のコンビ(いずれも故人)。『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』に続く3本目の担当である。だが、前2本に比して『ガンダム』の音楽は、常識と少し違う雰囲気を放っている。映画ではシーンに合わせて1曲ずつ劇伴が用意される(「スコアリング」という)。だが、TVアニメでは毎週曲を使うため、あらかじめ想定される情景(ガンダム発進など)や感情(怒り、哀しみなど)をメニューに列記し、それをもとに作曲が行われる(「溜め録り」という)。作曲時点ではフィルムが完成していないことも多く、キャラクター設定書やシナリオ、絵コンテなど制作素材だけが手がかりとなる。

渡辺岳夫は当時のインタビューで「《たし算》と《ぬり絵》で画面に合わせた音楽を作るのは止めようと、いうことになり」と語っている(機動戦士ガンダム 記録全集3)。これは「笑っている映像に明るい音楽を足す(塗る)」というルーチンの発想による、シンプルで説明的な作曲・選曲方法を指す。だが、ガンダムは「顔は笑っていても気持ちは哀しい」というよう複雑な表現で人間味と現実感を求める作品である。音楽に求められるものも高度でリアルな感情や、宇宙世紀を代表する直径6キロのスペースコロニーという誰も目にしたことのない人工建造物の存在感、壮大な時間の流れという抽象的なものが多くなった。

その結果、ファーストアルバムには、実に聴き応えのある曲ばかりが収録された。しかも当時は「組曲形式」として複数曲をまとめるアルバムが流行していたのに対し、ほぼ1曲毎に構成され、ステレオで収録されていることも画期的だった。作中ではメニューと異なる使われ方をした曲も多いが、その応用範囲の広さが楽曲が表現するものの深さを実証している。つまりガンダムの音楽は映像に対し、「たし算」ではなく「かけ算」の作用を及ぼしているのだ。そうした音楽は、セル画と画用紙で描かれるがゆえに薄くなりがちな映像を、特別な厚みあるものへと仕上げていく。ゆえに音楽を聞けば逆に映像が浮かぶケースも増え、オンエアが進むにつれて何度聞いても飽きが来ない、歴史に残る名アルバムとなった。

当時のアニメのサントラ盤は1枚のみ発売され、2枚出ても「BGM集とソング集」が一般的であった。ところが音楽中心に挿入歌3曲のセカンドアルバム「戦場で」が放送中(11月)に発売されたことも、画期的であった。しかもこの商品は「パッケージ」全体に革命を起こす。1枚目がセル画仕上げだったのに対し、2枚目ではアニメーションディレクターの安彦良和自らがジャケットを描き下ろしたのだ。しかもガンダムが描かれていないのも、驚きである。

修羅の戦場を連想させる荒涼とした夕景、絶望の中にそれでもアムロが一歩踏み出そうとする画題は、まさにガンダム世界のテーマを集約したものとなった。結果的に1枚目よりもセールス枚数が上回る現象が発生し、キングレコードの「LPダイヤモンド賞」を受賞するほどとなって、同社のアニメ部門を活性化する。これは今で言う「ジャケ買い」の始まりでもある。以後「パッケージングの重要性」という意識が芽生え、イラストやデザインが次第に洗練されて、ファンの期待に応える商品が増大。この流れが後に「ビデオソフト」というパッケージ商品へとつながっていく。

このセカンドアルバムでシンセサイザーの配分が増えていることも、時代性を如実に反映している。主に終盤から最終回に向けてニュータイプや艦隊決戦、コロニーレーザー等に対応した楽曲中心に収録されているが、劇伴というよりイメージ曲に近いものとなっている(本編に使われた曲が少ない)。これはインベーダーゲームが流行し、YMOがヒットして電子音が席巻した世情によるものでもあった。『ガンダム』は時代の節目を象徴した作品であったが、それは音楽においても同様のことが言えるのである。

これらのアルバムは、現在でもCD等で入手することができる。機会あればそうした時代性ごと、当時の曲を受け止めていただきたいものである。(敬称略)

※松山祐士の「祐」は「示右」を1文字で書いた外字です。

現実世界とファーストガンダム  第6回 ガンダム主題歌、歌詞の意味するもの

2022.9.23

【2006年8月20日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

『ガンダム』と言えば「SF&ミリタリー」。そんな概念に慣れた現在の目で見ると、最初のTVシリーズ『機動戦士ガンダム』には、むしろ「ヒーローロボットアニメ」に擬態しようと懸命に努力した形跡が多く発見できて、驚かされる。その最たるものは、オープニング主題歌「翔べ!ガンダム」ではないか。「燃えあがれ」など熱い言葉を多用し、主役メカ「ガンダム」の名前を連呼し、機械のガンダムが「正義の怒り」を覚える擬人化表現など、「ヒーロー」的な作詞・作曲法が徹底されている。

これは70年代のロボットアニメとしては、特別なものではなかった。むしろ玩具のCMとしての番組成立を考えるとコマーシャルソング的な主題歌も当然のこととして、放送開始時点では受け止められたはずだ。ところがオンエア後しばらくすると、作品の目ざすところが過去の「イケイケ、敵をやっつけろ」調とはまるで異なるものだという共通認識が視聴者に定着し、そのころから主題歌に対する違和感が改めて浮上してきた。これが経緯としては正確なところだろう。

その結果として、オンエア終了直後に発売された「ドラマ編 アムロよ…」や「交響詩ガンダム」といった企画アルバムでは、主題歌は世界観とのミスマッチから積極的にオミットされている。後の劇場版では、「もっと広く一般層にアピール」という意図により、谷村新司や井上大輔といったヒットミュージシャンの曲が採用されるようになって、ますます「ロボットアニメ調」から遠ざかってしまった。結果として、アニメカラオケで「翔べ!ガンダム」を歌う人は少なく、むしろ「哀 戦士」や「めぐりあい」を優先して選曲する傾向さえできてしまった。

勝手な話だが、今となっては「ガンダム」という単語が織り込まれていない劇場版主題歌には一抹の寂しさを覚える。80年代以後、「アニメ主題歌」全般でロボット名が出てくる方がレアになってしまった。「ガンダム」がきっかけでアニメ主題歌もコマーシャルソング的なものから離れ、「主題歌それ自体が商品」と認知されていき、やがてタイアップソングのショーウィンドウ化していく。そんな止めようのない流れの果てに起きた、一種の逆転現象なのである。

「翔(と)ぶ」という読み方は、70年代後半に歌謡曲や漫画などで流行して定着したもので、本来の日本語の読みにはない。その「翔(と)びたい」という願いは、第9話のサブタイトルにも転用され、富野総監督の目ざしたテーマの一部でもあった。だから、TVシリーズ『機動戦士ガンダム』の原点再確認とともに、今こそファーストガンダム主題歌としての「翔べ!ガンダム」の再評価も、必要なのではないだろうか。

テーマと歌詞といえば、エンディング副主題歌「永遠にアムロ」にも注目してほしい。この曲に紡がれた言葉は非常に重要である。この機会に歌詞カードなどで一度「言葉として」再読していただきたい。ガンダムシリーズで連綿と語り継がれている主題のひとつに、「人間が地球という重力の束縛から離れたとき、ある種の才能が覚醒して未来に向かって大きく翔ぶことができるのではないか」という「願望」がある。これを物語上のアイテムとして体現したものが「ニュータイプ」に相当するわけだ。『無敵超人ザンボット3』以来受け継がれている「乳離れ」への極めてプリミティブな「願い」が、主人公アムロへ贈る言葉として「永遠にアムロ」には結晶化しているのである。

作詞の井荻 麟は、富野由悠季総監督のペンネーム――これもファーストガンダム当時には明らかにされていなかった。『機動戦士ガンダム』という物語が本当は何を訴えたかったのか、より鮮明になった現在だからこそ、原点に位置するナマの言葉を確認することには、大きな意味がある。「主題歌=テーマソング」という趣旨を念頭に置いて、「アニメの歌」を革新しようと試みた名曲に、もう一度耳をすませてほしい。(敬称略)

現実世界とファーストガンダム  第5回 アニメ雑誌の変化とガンダム

2022.9.23

【2006年7月11日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

今でこそアニメ雑誌があるのは、当たり前に思われているだろう。だが、『機動戦士ガンダム』が放送された1979年は、まだアニメ専門の雑誌が誕生して間もない時期……当時はいつ消えてもおかしくないものであった。

1977年に『宇宙戦艦ヤマト』が劇場公開されて大ヒットしたのを受け、徳間書店が「アニメージュ」を1978年5月に創刊。同誌の成功を受けて1979年には近代映画社が「ジ・アニメ」を創刊し、「スターのグラビアを掲載するアイドル映画誌」に近い概念のA4判アニメ雑誌というフォーマットが確立する。『機動戦士ガンダム』が登場した時期はこうした雑誌が、『ヤマト』並みの新たな目玉作品を欲していた時期だった。

この時期、リメイクや再編集で劇場公開されたアニメ作品には、ひとつの共通項があった。『宇宙戦艦ヤマト』、『ルパン三世』、『エースをねらえ!』など、いずれも本放送時には高視聴率が得られず、数年しての再放送で人気を獲得、やがて映画化というパターンが反復されていたのだ。リアルタイムで評価されてこなかった理由としては、ティーン層に向けてアニメ作品の適切な情報や魅力を伝える《メディアの不在》が、最大のものではないだろうか。だからこそ『機動戦士ガンダム』がリアルタイムで観客に受け入れられた作品ということには、アニメの受容の歴史を考える上で格別の意味がある。ましてやその後、アニメ雑誌(アニメマスコミ)が迎えた隆盛を考えると、このタイミングで発生したフィルムとメディア相互の強い関連性には、特別の注目が必要だと考えるのである。

「アニメージュ」に放送開始の情報が掲載された1979年4月号(3月10日発売)から最終回情報の載った1980年2月号(1月10日発売)まで11号のうち、『ガンダム』が表紙を飾ったのは9月号と12月号の2冊。いずれも安彦良和のイラストだが、後者は急病で描きおろしができなかったため、シャアの「線画(第10話の修正原画)」を代用して、逆に読者に「ガンダムの作画クオリティを支える安彦良和の実力」に関して生々しいインパクトを与えた。

放映時期の他の表紙作品は、新作が『サイボーグ009』(2回)、『新・巨人の星II』、『ルパン三世(新)』、『ルパン三世カリオストロの城』の4作。旧作は『海のトリトン』、『未来少年コナン』というラインナップだった。特に注目したいのは放送終了直後の3月号の表紙がまたも『ガンダム』で、しかも半年近く前の第24話で死亡したマチルダ・アジャンの場面写真を採用していることである。

本放送の後半から終盤に向け、ガンダム人気が加速的に上っていたことは最近も多くの人が証言しているが、その裏づけもこんな形で記録されていたわけだ。だから、『ガンダム』について「玩具売上不振で番組が打ち切られた」という言い方は事実であっても、「放送中には人気がなかった」という表現には問題がある。盛り上がりの中で最終回を迎えたというのが本放送時の真の状況であるため、それはこの機会にぜひとも心に刻んで欲しい。

さて、アニメ雑誌はグラビア主体のA4判ばかりではなかった。アニメグッズを販売する会社ラポートが「マニフィック」というB5判の中とじ雑誌を1978年末に創刊、これがファン向けのグラビア映画誌に対する評論主体の「キネマ旬報」に近い役割を果たしていくようになる。同誌は『機動戦士ガンダム』スタート直後の1979年5月の第5号からは平とじの隔月刊「アニメック」と改題し、次の第6号でガンダム特集をしたとたん完売、増刷になるという事態が起きた。それはメジャー誌ではまだ大きくは扱われていなかった設定資料や富野監督のロングインタビューを掲載したことが最大の要因だった。

そのインタビュー内容は、小牧雅伸編集長(当時)の趣味を反映し、フィルムを観ているだけでは気づきにくい細部、特にSF考証的な部分を大きくフィーチャーしていた。つまり、『ガンダム』の難解だと思われがちな部分への副読本的な役割を、「アニメック」は果たしたわけである。ちなみにこの設定資料を多用した用語事典の編纂によって作品世界を膨らませるというスタイルは、小牧編集長や筆者(氷川竜介)が『宇宙戦艦ヤマト』の同人誌時代に確立していたもので、それがリアルタイムの作品へ応用されて成果を出したという意味でも、感慨深いものがある。

小牧編集長とスタッフは、やがて本編でNGになった「ガンダーX78」というセリフをヒントに兵器としての型式番号「RX-78」を主役メカのガンダムに付与し、以後は「モビルスーツと言えば型式番号」という設定が定着する。これも実はマスコミ側からのフォローアップに端を発したことだったのだ。

アニメマスコミもハイターゲット向けのアニメも同時に黎明期だったころ、互いに何も語りあわなくとも両者でともに盛りあげていこうという機運が確実にあった。『機動戦士ガンダム』は、そうした潮流の発展史を探るときの指標の役割も果たしているのである。(敬称略)

現実世界とファーストガンダム 第4回

2022.9.16

【2006年5月26日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

確かに『機動戦士ガンダム』はアニメ史上で非常に重要な作品である。だが、必ずしも最初から最重要視されて、優遇されていたわけでもない。その微妙な制作状況は、同じ1979年にスタートした新番組のラインナップから、容易に推察することができる。

サンライズ(当時:日本サンライズ)は、そのとき設立されて3年目。以前から創映社サンライズスタジオとして『勇者ライディーン』など名作を送り出した結果、この時期は超繁忙の渦中にあった。春からは『未来ロボ ダルタニアス』(長浜忠夫監督)、『サイボーグ009(新)』(高橋良輔監督)、『ザ・ウルトラマン』(鳥海永行監督・神田武幸監督)など、東映や円谷プロからの発注作品が続々スタート。7月からは、実写特撮とアニメ合成による自社作品『科学冒険隊タンサー5』(四辻たかお監督)も始まる。

1社で同時に5本のTVシリーズが回るということ自体が壮絶な事態であるが、問題は内部だけではない。1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』ブームによって業界全体でアニメ作品数が膨れていた時期だから、どの現場もスタッフの取り合いでリソース不足に悩まされていたはずだ。『ガンダム』のメインスタッフも「これ一本!」と絞りこんでいたわけではなく、それぞれ掛け持ちをしている。それは資料を少し調べれば、わかることだ。

富野由悠季総監督は『赤毛のアン』(高畑勲監督)の絵コンテのローテーションに入っているし、アニメーションディレクターの安彦良和は、単発のTVスペシャル『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』で絵コンテと作画に入っている。壮絶なのは美術監督の中村光毅とメカデザイナーの大河原邦男で、2人とも旧作を担当した縁で前年秋から『科学忍者隊ガッチャマンⅡ』(笹川ひろし監督)に参加した上に『ザ・ウルトラマン』にも入っていて、さらに大河原邦男は春から『ゼンダマン』、中村光毅は夏の『ヤマトスペシャル』を手がけているのだから、壮絶なる仕事量である。余談めくが『ザ・ウルトラマン』の後半にはルーキー時代の河森正治(スタジオぬえ)がメカデザインで参加するが、量を考えれば無理からぬところ。

いずれも掛け持ちをしたかったわけではないと思う。アニメーションはまだまだ人手が足りず、しかもそうしないと「食えない」状況だったからなのだ。ベテランの地位だから『ガンダム』という「美味しい仕事」につけたわけではなく、あまたある作品をひとつひとつ仕事として着実にこなしていった上で、輝くヒット作が結晶した。この事実は、きちんと認識しておいてほしいことだ。

だからこそ、『機動戦士ガンダム』に漂う異様な緊迫感はリアルだとも言える。作中描かれている「慢性的人手不足」「素人を即戦力で使って生き延びる状況」「続発するトラブルに右往左往」というドラマは、当時のアニメ制作現場に実在した事件の、ライブ感覚あふれるドキュメンタリーと見ることもできる。TV版ガンダム特有のバンク(流用カット)の連発は、爆発一個、ザクの射撃一発たりとも無駄な新作画はさせまいという気迫に充ちているが、それもこの状況を想像すると巧みな方便と感心せざるを得ない。ときおり見える不条理なミスは、富野監督が「許されるものではない」としてはいるが、ミス自体が緊迫感の表現と曲解できなくもない。そこまで踏みこむと、「君は生き延びることができるか?」という予告の言葉は、「この現場の惨状で次回も納品できるのか?」と変換されて聞こえてきたりして……。

いずれにせよ、『ガンダム』も四半世紀以上が過ぎて歴史的なフィルムとなりつつある時期だからこそ、時にこうした状況への想像も加えてみたい。内容で伝えている「たとえ泥沼であったとしても、やり遂げなければならない使命感」という普遍的なメッセージの真意を、少し苦いスパイスとともに味わうことができるかもしれないのだから……。(敬称略)

現実世界とファーストガンダム 第3回 ロボットアニメの歴史と、ガンダムのエポック

2022.9.16

【2006年4月20日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

『機動戦士ガンダム』はTVアニメのエポック・メイキングな作品である。それは間違いないが、闇雲に斬新だったわけではない。この作品が登場するにいたるには背景となる状況があり、連綿とつながってきたジャンルとしての文脈がある。そうしたものにも目を配ると、また別の視点が獲得できて楽しみも拡がるはずだ。

たとえば、『ガンダム』はロボットアニメというジャンルを拡大はしたが、逸脱したわけではない。それを認識する上では、特撮作品(実写)含めた児童ものという上位ジャンルの流れに注意を払う必要がある。

『マジンガーZ』(’72)から始まったロボットアニメというジャンルは、実は特撮作品『ウルトラマン』(’66)で確立したフォーマットをアニメに応用したものなのである。毎回違った敵の「怪獣」が襲来し、主人公が「変身」して敵と格闘した末に必殺技でトドメを刺す。この点はまったく変わらない。そして、メカの操縦席に座って主人公が巨大ロボを自在に操る行為とは、この「変身」をメカに疑似したものと言える。その要素は『ガンダム』にも受け継がれ、アムロに「変身」をさせて「何か特別な力」を与えるガンダムのヒーロー的構造は変わっていない。

もうひとつ、日本の児童ジャンルに大きな影響を与えた作品を知ってほしい。それは『ウルトラマン』と同年に英国から輸入された特撮人形劇『サンダーバード』である。この作品が導入したものとは、メカの格好良さである。サンダーバード1号から5号まで用途に特化してデザインラインを変え、1号は可変翼をもつ「変形メカ」、2号は装備コンテナを着脱する「合体メカ」というラインナップ構想。毎回のエピソードにアクセントをつけるライブフィルム(流用)による発進シーン。こうした諸要素を列挙すれば、まさにロボットアニメのアーキタイプ(原型)にふさわしい作品だということが浮かびあがる。

同作がマーチャンダイジング的に大成功を収めたため、『ウルトラマン』+『サンダーバード』=『ウルトラセブン』と、簡単な方程式が書けるほど国内の児童ジャンルには大きな方針転換が起きた。この考え方を使えば、『ウルトラセブン』の「生身の巨大宇宙人」を「操縦可能なメカ」に写像(変換)したものが『マジンガーZ』だという数学的理解も可能である。

こうして確立したロボットアニメのフォーマットとは、「味方には基地があって指揮官がいてチームが待機。主人公が変形メカで出撃、合体して巨大ロボとなり、味方チームの支援を受けながら敵と格闘する」というものだ。ここまで抽象化すると、『機動戦士ガンダム』TVシリーズでそれが根底から覆ったわけではないことが、よくわかるだろう。

だから、慣習的に言われる「ガンダムはリアルな兵器と戦争を描いたから、他のロボットアニメと違って画期的だった」という言い方は、間違ってはいないが、決して正確でもない。あくまでロボットアニメで商業的成功を遂げてきたジャンルとしての価値観を極力残しつつ、どこまで非現実的なヒロイック要素を減じ、どんなリアリスティックな要素を加えれば、新しいロボットアニメができるのか……。それを試した作品なのだ。

肯定と否定、そして革新の3つのアプローチが互いにセットになったとき、初めてエポックが作れる。“『ガンダム』が画期的だった”と語るときには、ぜひこの視点を忘れないでほしい。

現実世界とファーストガンダム 第2回 今よりももっと宇宙が身近だった――ガンダム放映のころ

2022.9.16

【2006年3月20日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

『機動戦士ガンダム』の舞台といえば、宇宙植民地《スペースコロニー》。そして真空の宇宙空間は《そら》と呼ばれ、登場人物たちにとって自然な生活環境の一部になっている。そんな宇宙に対する自然さは、『ガンダムシリーズ』全般の魅力だ。

TVシリーズ第5話から6話にかけて、ホワイトベースは地上への降下を試み、宇宙と地球の境界を突破する「大気圏突入」がドラマの題材になる。当時としてもその灼熱の現象を真っ正面から描いたSF作品は少なく、現実世界との接点を非常に新鮮に感じたものだった。それは2006年現在よりも、むしろ放送当時の1979年の方が宇宙に近かったから、ということを意味するのではないか。こんなところにもTV版『ガンダム』が今なおファンの心を惹きつける秘密がありそうだ。

当時は米国NASAによるアポロ11号の月面着陸からちょうど10年。最近のようにその事実を疑う人間も、まだほとんど存在しなかった。突入カプセルが大気圏に入り空力加熱によって赤熱する映像は、広報用のアニメーションで当時の子どもたちにはおなじみのものだったし、パラシュートで海上へ降りるカプセルのニュース映像はまだまだ価値のあるものだった。ロマンと現実性の両方が宇宙にあった時代、「将来なりたいもの」の欄に「宇宙飛行士」と書く子どもも多かったのではないか。

人類を月に送りこむアポロ計画終了にともない、1980年代では宇宙開発は大気圏再突入を反復可能なスペースシャトルの時代に入る。初の打ち上げは1981年4月、劇場版『機動戦士ガンダム』が公開されたころであった。

実はその直後、『ガンダム』のサントラ盤を発売していたキングレコードとサンライズの共同で、シャトル打ち上げの実況音を米国で現地録音したアルバム(ビデオ時代前夜のため音だけ)という企画があり、海外旅行が珍しい時代だから、筆者も近くにいて非常にうらやましく思った記憶が残っている。それぐらい「ガンダムと現実の宇宙空間」は近かった時代があったのだ。いったいいつごろからそうでなくなったのだろうか。

原因は多数考えられる。シャトルのミッションが実務的でロマンに乏しかったこと。「スペースインベーダー」などTVゲーム時代が到来して宇宙が矮小化されたこと。1983年に『スター・ウォーズ』最初の三部作が完結したこと。冷戦終焉に近づくにつれ、両陣営の威信を賭けていた宇宙開発がコストに見合わないという方向性になったこと……。

トドメは1986年のスペースシャトル爆発事故である。空に拡がるあの衝撃の爆炎は、宇宙航行に対する非常にネガティブなイメージを大衆に植えつけたはずだ。そしてちょうど同じ年には、ファミリーコンピューターの世界を一変させたRPG『ドラゴンクエスト』のブームが始まっている。そこで一挙に宇宙からファンタジー系への傾倒が加速したということは、おおいに考えられるのだ。

このようにして人心が宇宙から次第に離れて幻想世界へ向かっていったと考えると、実は『機動戦士ガンダム』TV版こそは、もっとも「現実世界の宇宙」に近いガンダムだったのではないかと思えてくるのである。

現実世界とファーストガンダム  第1回 ガンダム誕生の年――TVアニメの作り手と受け手は再会した

2022.9.16
【2006年2月8日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

このコラムでは作品そのものから少し離れて、1979年に放送された『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)を取り巻いていた現実世界の様相について述べながら、当時の時代背景や世情を浮き彫りにし、その中から改めてファーストガンダムが置かれていたポジションを探っていきたい。

まず、放送スタートした1979年はアニメーション業界自体が活況で、量的にも質的にも恵まれていた時期だと総括できる。同じ一年にこれだけのアニメ作品がそろうことは、まさに空前であった。『赤毛のアン』(高畑勲監督)、劇場版『銀河鉄道999』(りんたろう監督)、劇場版『エースをねらえ!』(出崎統監督)、『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)と、タイトルを並べるだけでも目眩がする。

富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』もまた、その傑作群を代表する1本なのである。

なぜこうした現象が発生したのだろうか? その理由は2つある。

1つは1977年夏に『宇宙戦艦ヤマト』を劇場映画として再編集したものが大ヒットして、児童以外にもミドルティーン、ハイティーンのアニメ観客がいると、アニメ市場が認知されたこと。もう1つは先述のタイトルを放った作り手(特に監督)たちの大半が30代後半になり、人生で一番良い仕事をするとされる時期に差しかかっていたことである。

そして、独立しているようにも見えるこの両者には、実は密接な関連がある。前者の「発掘された観客」とは、1963年にTVアニメ『鉄腕アトム』が放送されて以後、TVでアニメ作品や特撮作品を見続けてきた子どもの成長した姿なのだ。そして、後者の「作り手」とは、TVアニメが急成長したその60年代、逆に衰退を開始した映画業界、ラジオ業界、貸本屋などに職が得られず、アニメーションの作り手となって、幾多の苦難を生き延びてきたスタッフたちなのだ。

何のことはない。16年が経過して、同じ作り手と受け手が期せずして再会していたというわけだ。「今ならここまでやれるよね」と作り手が容赦せずに投げた剛速球を、成長して半分大人になりかかった受け手がど真ん中でキャッチする。この凄まじい感動の共鳴が、他の世代をも巻き込み、メディアにも影響を与えて急速に全体を進化させていった。

それが1979年という時期であり、いわゆる最初の「アニメブーム」の正体である。

そう考えてみると、『機動戦士ガンダム』で描かれている「少年の乳離れ」という大テーマ(エンディング「永遠にアムロ」の歌詞上に、その願いは言語化されている)が何だったのかが、改めてより明瞭になっていくのではないだろうか。

そんなことも念頭に置きながら、1979年に初めて放送された『機動戦士ガンダム』の持ち味を存分に味わってほしい。

アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)スペシャルトーク
「アニメと特撮の文化を後世に残すために」

2022.3.31

第6回新千歳空港国際アニメーション映画祭でのスペシャルトーク(2019年11月4日開催)より採録
(※映画祭のプログラムとして『宇宙戦艦ヤマト』第1~3話を連続上映した後、トークを開催)
<<登壇者>>
氷川竜介(特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構理事、明治大学大学院特任教授、アニメ特撮研究家)
三好寛(同・事務局長)

●映画より映画らしい
『宇宙戦艦ヤマト』初期3話

三好 アニメ特撮アーカイブ機構と言われても、分からない方が多いかと思いますが、本日午後1時5分からのトークでご紹介させていただきます。簡単に言うとアニメや特撮のアーカイブ……様々な資料、貴重品を保管保存して未来に役立てようという活動をしているNPOです。理事長は庵野秀明。同じく理事を映画監督の樋口真嗣、そしてもうひとりの理事をこちらの氷川さんが務めております。
今回お招きいただくにあたり、事務局から「何かひとつ皆さんにお届けする映画を選んでほしい」というリクエストがありました。この『宇宙戦艦ヤマト』を選んだのは氷川さん。まず選定理由からお聞かせください。
氷川 最初は「映画を選ぶ」というご依頼に対し、なぜテレビシリーズ最初の3本を選んだのかですね。ひとことで言えば「こっちのほうが映画らしいから」です。
三好 僕は1977年公開の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を提言したのですが、「君は分かってないね」と一蹴されました。
氷川 たしかに劇場で公開された映画ではありますが、自分にとって『ヤマト』の良いところが、たくさん抜け落ちています。わかりやすい例を挙げると、たった今上映した第3話。本来、波動エンジンは一発で始動しません。光速を超えるものすごく大きいエンジンですから、当然一発ですぐにはかからないし、人間のミスもあり得ます。『ヤマト』ではそうした大きなメカニズムの勘所、エッセンス、人との関わりが多々描かれています。そして二回目の始動……ものすごく長い間があって、「これはまた失敗したかな」と思わせところで、巨大なエンジンから伝わってくる効果音が、最初は静かに、だんだん高まって動き出します。一発で始動してしまうと、映画的な感動も何もないはずなのに、劇場版は尺を縮める都合で一発でかかってしまうんですね。
三好 なんだそりゃ、という感じですね。
氷川 後の『宇宙戦艦ヤマト2199』も、現代の観客はテンポが遅いとついていけないという理由で一発ですし、そこは残念でした。実写版リメイク作品(『SPACE BATTLESHIP ヤマト』)に至っては、一発がけに加えて波動砲まで撃ってしまう。ヤマトはヒーローみたいに、必殺技を出してカタルシスをもたらす万能感のあるメカではなかった。ある種クラシックなヤマトというテイストが消し飛んでしまいました。
『ヤマト』以前のテレビ番組は、大事なところだけを提示するような傾向がありました。子どもが分かりやすく取りこぼしがないよう、きちんと順を追って物語の段取りを説明していきます。そうでないと、チャンネルを変えられてしまうからです。ところがテレビシリーズの『宇宙戦艦ヤマト』は存在感や空気感や遠近感、臨場感といった「目には見えないもの」を重視している。
そして段取りにしても、わざと長くやります。波動エンジンをかける前にスターターとしての補助エンジンを回すとか、計器類を点検するとか、難しいことばかりやる。その普通ではない姿勢に、自分たちの世代は参ってしまったんです。なぜそういう作りになったかということについては、説明するとひと晩かかってしまうので、ここでは深掘りはしません(笑)。
三好 そうした要素が「まさに映画だ」という理由で選ばれたと。
氷川 そうですね。もちろん1974年当時に「これは映画的だ」と思っていたわけではありません。でもその後いろいろな研究を重ねていくうちに、日本のアニメは「映画的にしたい」という中で進化したことが、分かってくるんです。しかも1974年にはその方向性に関し、「以前以後」で語られるエポックが2作品出ています。もう1本は『アルプスの少女ハイジ』なんですね。高畑勲・宮崎駿コンビの作品ですから、今考えると裏番組だった『ヤマト』が視聴率競争では絶対に勝てないのは当然です(笑)。しかも『ヤマト』が始まった時期は『ハイジ』の4クール目、やがてクララが立つかどうかというクライマックスが近づいています。
三好 ヤバイです。一番盛り上がっている時です。
氷川 当時『ヤマト』の制作現場へ見学に行ったら、スタッフが「君たち『ヤマト』なんて観ないで『ハイジ』を観なさい」と説教されたという話をよく聞きましたから。
三好 世の中は『ハイジ』一色だったわけですね。氷川さんの『ヤマト』との出会いはどのようなものだったんでしょう。
氷川 『宇宙戦艦ヤマト』放映が始まったのは1974年10月6日で、そのとき私は特撮のほうに惹かれていたので、もうひとつの裏番組『猿の軍団』を観てしまいました。SF作家の小松左京、豊田有恒、田中光二という強力な3人の原案で、円谷プロダクションが制作した作品です。巨大ヒーローが出てこない、「SFドラマ」と肩タイトルのある番組です。
三好 映画『猿の惑星』がヒットした後でしたからね。
氷川 そこからは5~6年経っていますが、内容的にも『猿の軍団』と『ヤマト』は表裏の関係にあります。人類が滅びてしまった世界が『猿の軍団』。滅びる寸前の世界が『ヤマト』。当時は終末ブームだったからです。1973年末に公開された映画『日本沈没』(原作は小松左京の小説で2百万部以上のベストセラー)、未来への警告として書かれた『ノストラダムスの大予言』(五島勉著のノンフィクション。こちらも2百万部発行)など出版物が世間を騒がせていました。しかも『日本沈没』は、円谷英二特技監督の死後(1970年逝去)、初の大規模、かつ怪獣の出ない東宝特撮としてつくられました。『日本沈没』と『猿の軍団』と『ヤマト』はともに「世界の滅び」を描いたという点で、文脈的にも通じているわけです。
三好 そういう時代だったんですね。
氷川 終末ブームとオイルショックで日本の再興を支えた科学文明にも頭打ち感が出てしまい、社会的な危機感が日本社会に蔓延していました。そんなとき、青少年に向けて「君たちにも、なにか出来ることがあるのではないか」というメッセージを込めてつくられたのが『猿の軍団』や『ヤマト』でした。それで問題は、1974年の11月3日です。ちょうど45年前ですね。そのとき、第2回日本SFショーというイベントが世田谷区民会館で開催されました。
三好 それはファンの集まりでしょうか。
氷川 日本SF大会はファンが主導して作家を招待するコンベンションですが、対する日本SFショーは「プロが主催するイベント」なんです。当時日本テレワークというテレビ番組制作会社、アウトソースの草分けで『ひらけ! ポンキッキ』という児童向けバラエティを作っていた野田昌宏さん(日本にスペースオペラを翻訳・紹介した中心人物)も、メンバーでした。『ヤマト』の設定はスタジオぬえが担当していましたが、『ポンキッキ』にも動く仕掛けがあるイラストを提供していたんですね。そのつながりもあり、そのSFショーで『宇宙戦艦ヤマト』の第1話が16ミリフィルムで大スクリーンに上映されたのです。
そもそもなぜ第2回SFショーが11月3日に開催されたかというと、『ゴジラ』(1954年公開)の成人式が第1部だったんですね。第2部は『小松左京ショー』です。これで分かるとおり、当時はまだ特撮とアニメの映像ジャンルは不可分であり、それをSFがつないでいたのです。1日に『ゴジラ』と『ヤマト』の2作品が大画面で上映されたわけです。なので『ヤマト』第1話との出会いはテレビではなく、フィルム、つまり映画としてだったんですね。鼻血を出す思いで隅々まで脳に焼きつけながら観ました。
三好 大画面で観ると鼻血が出ますよね。
氷川 その興奮が冷めやらぬまま、11月末か12月の頭に、東京練馬にあった制作現場に見学と称して友人たちと押しかけることになりました。高校2年だったので、ご迷惑を顧みなくお恥ずかしい次第ですが、若気の至りということで……。
三好 『ヤマト』第1話で古代と島が飛び出していったように。
氷川 まったくそんな感じですね(笑)。

●特撮的な技術と発想による
『ヤマト』の映像

氷川 当時まだアニメ誌がなかったので、アニメをどのように制作しているのか、ごくおぼろげな知識しかありません。「セル画に色を塗って1枚ずつ撮影して作る」ぐらい知ってはいても、細かい部分は何も分からないわけです。会社としてのビルがあるかと思って行ってみたら、住居用と事務所用のマンションで作業をしていたのに、まずビックリしました。演出ルームも畳敷きですが、棚がズラッと並んでいて、ものすごい量の紙の束が積んであるんです。それが初めて見た設定資料、その原版でした。そういうものがあるということ自体が知られてなかった時代に、第一艦橋のメーターやレバー類など、とても細かく描かれていて感激しました。波動エンジンの説明にしても、どのブロックが何なのかとても細かく機能が書かれている。つまり適当に思いつきや雰囲気で描いているのではなく、まず設計図があるんだと。それを大勢のスタッフが共有して、さらに描写を積み重ねていく。そうやって根拠を重ねて生まれていった映像だから、先のエンジン始動シーンもすごくなったわけだとショックを受けました。つまり「すごいものにはそうなる理由がある」という具体的な根拠を肌身で感じたんです。
三好 それを生でご覧になった。
氷川 そうです、生原稿の迫力、質感、ディテールも大きかったです。そしてチーフディレクターの石黒昇さんが親切な方で、その後ずっと行くたび僕の相手をしてくれたんです。生涯の恩人です。石黒さんがもともとアニメーターを目指してこの業界に入ったきっかけは、ディズニーの『眠れる森の美女』でした。それは最後のハンドトレス作品であるだけでなく、エフェクト・アニメーションが優れているからだと。そんな説明から、『ヤマト』における爆発や光線などのエフェクトが特別なものに見えるのは、石黒さんの感覚で作られていたことが分かったんです。
そもそもディズニーはクレジットにもきちんと「エフェクト・アニメーション」を載せている、それに凝ると作品がリッチになることを知っていた、中でも波のエフェクト作画が描いていて面白いこと等々、石黒さんの源流にある体験をいろいろと教えていただきました。この時の談話が「エフェクトアニメ」に関心を深めたきっかけです。ヤマトは重たいものだから、線が多くてもゆっくり動かす。だけど、それってアニメでは自殺行為なんだよね、とも笑っておっしゃっていました。
三好 ですよね。
氷川 遊星爆弾の撮り方についても、クレーターの光の部分をマスクして透過光を合成して撮影しているとか。そして第3話ラスト、ヤマトがゆっくり手前に向かっていくシーンでは、スキップ撮影という特殊な処理をして、オプチカルプリンターで合成したと聞いて心底驚きました。「えっ? アニメなのに特撮と同じ手法で作っているということ?」という衝撃です。オプチカルプリンターと言えば、円谷英二特技監督が資金のアテもないのに当時4千万円もする最新鋭機を買った結果、『ウルトラQ』がつくられるきっかけになった、伝説の合成機材です。自分は同じ1974年の夏から円谷プロにも出入りするようになり、「怪獸倶楽部」という故・竹内博さんが中心となった団体にも接触し始めていました。怪獣映画がまだ文化的に認められていない時代に、研究を進めている先達たちとも知り合い、「理由があるはずなら、それを知りたい」と感じ、資料を自ら探すようになります。さらに、映画館やテレビから写真を撮って自分で現像焼き付けをし始めた時期と重なっています。
三好 アニメと特撮が今よりも密接だった頃ですね。
氷川 『ヤマト』の資料についても思い出があります。アニメ会社は大きなビルを建て、その中で流れ作業的に作っているという印象が強かったのですが、『宇宙戦艦ヤマト』は違いました。西﨑義展プロデューサーの独立プロダクションのスタジオですから、テレビシリーズ終了後はスタジオを解散することになったんです。家賃も人件費もかかりますからね。そこで廃棄される予定の資料をお願いして、もらいに行きました。
三好 棚にすごい量の紙の束があったというアレですね。
氷川 それは原版ですから残されますが、スタジオでは設定資料や絵コンテのコピーを大量に作るし、原画類はフィルムが完成すればゴミという感覚でしたから、本当に必要最小限の物以外は捨ててしまう。産業廃棄物になってしまうわけですね。
三好 アニメは膨大な紙のもとに生まれ、膨大な紙はゴミとして捨てられる。そんな時代があったんですね。
氷川 いまでも捨てられていると思います。セルは後に価値が出ましたが、それまでは撮影済みのセル画を畑に埋めて怒られたという都市伝説もあるぐらいで(笑)。
三好 『ヤマト』の資料が捨てられると聞いた氷川さんは、どうしたんですか。
氷川 資料には、完成フィルムからだけでは分からない重要な情報が沢山あります。検証するための証拠品、一次資料、いわゆるエビデンスとして、スタジオで使われていた資料は膨大な量のビハインド情報を含んでいるのです。これが散逸するのは大きな損失だという想いで、保存を申し出ました。この資料群に接したこと、高校のころ他人に頼らず自分で解析したことは、アニメを研究する上で大変有用な経験になっています。それから45年も経ちました。自分の命もいつまであるか分からないし、周りの方々が急に亡くなる状況も続き、自分が懸命に保存してきた物も含め、これは何かしないと作品資料を将来に残すことが出来ない。そう痛切に感じ始めたわけです。
三好 そうした「つくり手の魂」がこもった物を残そうという想いが、我々のアーカイブ活動に活かされています。

●空想力を刺激、触発する点で
映画らしい映像テイスト

三好 話題を『ヤマト』に戻しましょう。今日上映した1~3話を改めて観て、どうでしたか。
氷川 オリジナルに近いビデオ素材が流れたことに、まず驚きました。今発売されているHDリマスターのDVDとブルーレイは全話が後期オープニングに差し替わっていて、曲調が勇ましいほうになっています。他にもいろいろ修正されているのですが、今日上映されたのは、DVDの最初のBOX版を作ったときのマスターだと思います。傷がついていたり、多少ピントが眠かったりする部分も含め、当時スクリーンで観た感覚がよみがえりました。小さなテレビで観ると、この感じって出ないんですよ。
三好 イチ押しの見どころはどこでしょう。
氷川 1話の最初のツカミ、いきなり作品に引きこむところです。あの『機動戦士ガンダム』でさえ、世界観の説明から始まりますが、『ヤマト』にはそれがないんです。
三好 いきなり戦闘シーンから始まるので、観ている人は面食らったと思います。
氷川 ええ。何が何だか分からない。しかも負け戦から始まります。普通の番組だったら「『宇宙戦艦ヤマト』とは何か、なぜ誕生したか」とか「敵はこんな異星人だ」と説明してから、最初のバトルを始める。ないし戦闘の中で説明するところですが、いきなりヤマトの出ない艦隊戦が描写されるわけです。おそらくあの冥王星海戦は日露戦争のメタファーだと思います。映画だと円谷英二特技監督の遺作になった『日本海大海戦』で、そこも特撮につながっています。
主に沖田艦の艦橋にカメラを置いて、沖田艦長を中心とするクルーの主観的な視点で描かれています。中でも照明が落ちて真っ赤な非常灯に切り替わるシーンがありますが、実際に潜水艦が緊急潜航する時など、視認性を良くするために赤いランプに切り替えると聞いていたので衝撃でした。カラーテレビ普及のピークが1972年、『ヤマト』は1974年作品ですから、「色を使って表現力を高めよう」と思っていたのかもしれません。ただ、こんなモノトーンの効果を使うとチャンネルを変えられる恐れがあるのに、それでも強行して集中力を喚起している。そんな部分も「映画らしい」わけです。
三好 そして地球も赤いです。
氷川 そうです。第1話もBパートになると艦隊全滅どころではなく、人類滅亡の危機に瀕しているという衝撃の情況が描かれます。そこに至り、初めて「どうしてこうなったか」世界観の説明が入るわけです。1話の最後のほうには「放射能除去装置が欲しければ、14万8千光年を飛んでこい」と、地球が滅亡しそうなのに、さらなる無茶ぶりをされてしまう。小さなところからどんどんスケールが大きくなっていくので、クラクラするところが、最初の3話のみどころではないでしょうか。ちなみに劇場版の冒頭だと、ガミラスに狙われていて地球が遊星爆弾で滅亡寸前だという「説明」から始まります。確かに分かりやすくはなったけれど、映画的な体験性は消えてしまいました。
三好 この『宇宙戦艦ヤマト』1974年のテレビシリーズ26本は、アニメ史においてどのような存在になったのでしょうか。
氷川 やはり「以前・以後」で語られるエポックだったと思います。今作品を手がけているアニメクリエイターで50代60代の人たちは、かなりの割合で『ヤマト』を観てからこの世界に入ってきています。当時10代後半の人たちに、今アニメはここまで来ているぞ、アニメってこの先すごい未開の土地がありそうだ、アニメを観るのも面白いけれどつくってみないかと、いざなうようなインパクトを与えたのが『ヤマト』でした。まるでイスカンダルからのメッセージみたいに、行動を喚起する力があるんですね。それが一番大きい影響だったと思います。
もう一つは描写の緻密さです。第一艦橋が典型ですが、「アニメでここまで描かなくていいのに」とさえ思わせる密度感やリアル感です。アニメは本来「誇張と省略の芸術」ですが、その表現レベルを押し上げた作品です。映画では「神は細部に宿る」とよく言われますが、そういう感覚を一段と高めました。もちろんこれより前に『科学忍者隊ガッチャマン』をつくったタツノコプロの一連の作品等もありますが、『ヤマト』はケタが違っていました。
三好 リアリズムを更新したわけですね。
氷川 それは主に手間と時間とお金に跳ね返ってくるので、テレビシリーズの制作現場は大変なことになりました。『ヤマト』はクリエイターたちの時間と頭脳と労力を使うことで、レベルを上げていきました。往復29万6千光年の旅を終えて、ヤマトもボロボロでしたが、スタッフもボロボロになったんです。
三好 映像としては、どこがみどころですか。
氷川 遊星爆弾が爆発したときにピンクの光がふわっと拡がるところ。あれは普通の透過光の撮影技法ではないんです。庵野秀明さんが『超時空要塞マクロス』の原画に入ったとき、石黒昇さんが監督ですから、質問して聞き出しています。絞りとピントを同時に操りながら、「適当にやる」と(笑)。ところがこのファジーでアナログな「適当」がデジタルでは難しいんですね。「適当風」になってどこかキレイで、あの臨場感は出にくい。
三好 デジタルで追いつかない技というのはあるんですね。
氷川 2話と3話で、大量に使われている「波ガラス撮影」もそうです。歪んだガラスを通して撮影することで、ヤマトが爆発の中から出てくるような、空気がモヤモヤするシーンが作られました。今日、クレジットに名前が出ていた撮影の高橋宏固さん……出崎統監督の作品で有名な方ですが、その高橋プロダクションの後継のT2という撮影スタジオで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の取材をしたとき、撮影監督の福士享さんからこんな話を聞きました。演出さんから“波ガラスのような処理を”と言われるけれど、どうしてもあの感じにならない。コンピュータで歪めると「そう演算している」になってしまうわけです。ガラスを光を間に通してフィルムに撮ると、アナログですから、突然ポンと飛んだり、思わぬところが急に見えなくなったりして、それで自然に見えるわけです。
三好 アナログの技は今でも貴重なんですね。
氷川 職人の技だし、日本人っぽいところもありますね。デジタルでやればもっと綺麗に出来るけど、上手くいってないところ、適当な部分も含めて味になっています。
三好 話は尽きないのですが、大事なことはだいたい語られた気がします。ここで皆さんから氷川さんにご質問があれば、受けたいと思います。《間》 大丈夫でしょうか。
氷川 それでは、みどころをもう一つ。
三好 なんでしょう。
氷川 アナライザーのセクハラ描写ですね(笑)。「ああ、今はもうこんな描写はできないな」と思って観ていました。
三好 1974年制作ですから、皆さん大目に見てください。
氷川 『ヤマト2199』のスタッフに、「今回のアナライザーってセクハラしないんだ」とツッコミを入れたら、怒られてしまいました。
三好 子ども心には一服の息抜きシーンでした。
氷川 そういう点含めて「大人がつくっている感じ」がします。酒と煙草と色事のニオイが漂っています。劇場版ヤマトのヒットで、現場に大量の若手スタッフが入りました。それは功罪半ばで、どうしても「アニメ好きが作っているアニメ」な感じが出ることが多くなりました。新しい表現が出てくるという点では、それも決して否定は出来ないのですが、『ヤマト』は「半分テレビまんがで半分新しいことをやっている」という絶妙なバランスも良かったと思います。
もう一点、『宇宙戦艦ヤマト』は太平洋戦争からまだ30年経っていない1974年に放送されました。戦艦大和の時代と『宇宙戦艦ヤマト』の時代(29年)、『宇宙戦艦ヤマト』の時代と今(45年)と比べると、後者のほうがはるかに開きが大きいわけです。ただし『宇宙戦艦ヤマト』は「戦争のリフレイン」が目的ではありません。戦争で経験した事物や技術、その平和転用の時代だということと、未来への希望が強く伝わってきます。題材から戦争賛美的に受け止める方もいますが、そうではなく、反戦メッセージが強く出ているなと、今回も強く感じました。戦前生まれの人たちが多く参加している作品ですから、そういう願いが込められていると思います。
三好 皆さん、全26話のヤマトの旅、チャンスがあったら全話ご覧になっていただきたいと思います。そこからまた『ヤマト』から影響を受けたクリエイターたちが創った次の世代の作品へと歴史をたどるような見方をされると、また面白いと思います。
氷川 第3話で「世界中から電気が集まっています」というシーンって、『エヴァ』のヤシマ作戦かなあとか(笑)。
三好 うちの理事長も影響を受けまくってますね(笑)。それはリスペクトして、継承しているということですね。『ヤマト』を熟知することで、『エヴァンゲリオン』がもっと面白くなると。
氷川 それはあると思います。
三好 『シン・ゴジラ』ももっと面白くなるかも。もちろん『ガンダム』やその他、『ハイジ』を観るときに、「ああ、この時代にこういうことがあったのか」と考えながら観ると、歴史を補完したような見方もできると思います。
氷川 「ヤマト流」や「ハイジ流」などいいところを持ち合わせた、現代の作品も数多くあります。ハイジ流の特徴は、ジブリ作品経由で拡がったものです。
三好 ……というところでお時間でしょうか。
氷川 ありがとうございました。

初出:氷川竜介『ロトさんの本Vol.42 宇宙戦艦ヤマト 1974 全話解説 放送開始45周年記念』(2019年12月31日/個人誌)

Go to Top