第6回新千歳空港国際アニメーション映画祭でのスペシャルトーク(2019年11月4日開催)より採録
(※映画祭のプログラムとして『宇宙戦艦ヤマト』第1~3話を連続上映した後、トークを開催)
<<登壇者>>
氷川竜介(特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構理事、明治大学大学院特任教授、アニメ特撮研究家)
三好寛(同・事務局長)

●映画より映画らしい
『宇宙戦艦ヤマト』初期3話

三好 アニメ特撮アーカイブ機構と言われても、分からない方が多いかと思いますが、本日午後1時5分からのトークでご紹介させていただきます。簡単に言うとアニメや特撮のアーカイブ……様々な資料、貴重品を保管保存して未来に役立てようという活動をしているNPOです。理事長は庵野秀明。同じく理事を映画監督の樋口真嗣、そしてもうひとりの理事をこちらの氷川さんが務めております。
今回お招きいただくにあたり、事務局から「何かひとつ皆さんにお届けする映画を選んでほしい」というリクエストがありました。この『宇宙戦艦ヤマト』を選んだのは氷川さん。まず選定理由からお聞かせください。
氷川 最初は「映画を選ぶ」というご依頼に対し、なぜテレビシリーズ最初の3本を選んだのかですね。ひとことで言えば「こっちのほうが映画らしいから」です。
三好 僕は1977年公開の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を提言したのですが、「君は分かってないね」と一蹴されました。
氷川 たしかに劇場で公開された映画ではありますが、自分にとって『ヤマト』の良いところが、たくさん抜け落ちています。わかりやすい例を挙げると、たった今上映した第3話。本来、波動エンジンは一発で始動しません。光速を超えるものすごく大きいエンジンですから、当然一発ですぐにはかからないし、人間のミスもあり得ます。『ヤマト』ではそうした大きなメカニズムの勘所、エッセンス、人との関わりが多々描かれています。そして二回目の始動……ものすごく長い間があって、「これはまた失敗したかな」と思わせところで、巨大なエンジンから伝わってくる効果音が、最初は静かに、だんだん高まって動き出します。一発で始動してしまうと、映画的な感動も何もないはずなのに、劇場版は尺を縮める都合で一発でかかってしまうんですね。
三好 なんだそりゃ、という感じですね。
氷川 後の『宇宙戦艦ヤマト2199』も、現代の観客はテンポが遅いとついていけないという理由で一発ですし、そこは残念でした。実写版リメイク作品(『SPACE BATTLESHIP ヤマト』)に至っては、一発がけに加えて波動砲まで撃ってしまう。ヤマトはヒーローみたいに、必殺技を出してカタルシスをもたらす万能感のあるメカではなかった。ある種クラシックなヤマトというテイストが消し飛んでしまいました。
『ヤマト』以前のテレビ番組は、大事なところだけを提示するような傾向がありました。子どもが分かりやすく取りこぼしがないよう、きちんと順を追って物語の段取りを説明していきます。そうでないと、チャンネルを変えられてしまうからです。ところがテレビシリーズの『宇宙戦艦ヤマト』は存在感や空気感や遠近感、臨場感といった「目には見えないもの」を重視している。
そして段取りにしても、わざと長くやります。波動エンジンをかける前にスターターとしての補助エンジンを回すとか、計器類を点検するとか、難しいことばかりやる。その普通ではない姿勢に、自分たちの世代は参ってしまったんです。なぜそういう作りになったかということについては、説明するとひと晩かかってしまうので、ここでは深掘りはしません(笑)。
三好 そうした要素が「まさに映画だ」という理由で選ばれたと。
氷川 そうですね。もちろん1974年当時に「これは映画的だ」と思っていたわけではありません。でもその後いろいろな研究を重ねていくうちに、日本のアニメは「映画的にしたい」という中で進化したことが、分かってくるんです。しかも1974年にはその方向性に関し、「以前以後」で語られるエポックが2作品出ています。もう1本は『アルプスの少女ハイジ』なんですね。高畑勲・宮崎駿コンビの作品ですから、今考えると裏番組だった『ヤマト』が視聴率競争では絶対に勝てないのは当然です(笑)。しかも『ヤマト』が始まった時期は『ハイジ』の4クール目、やがてクララが立つかどうかというクライマックスが近づいています。
三好 ヤバイです。一番盛り上がっている時です。
氷川 当時『ヤマト』の制作現場へ見学に行ったら、スタッフが「君たち『ヤマト』なんて観ないで『ハイジ』を観なさい」と説教されたという話をよく聞きましたから。
三好 世の中は『ハイジ』一色だったわけですね。氷川さんの『ヤマト』との出会いはどのようなものだったんでしょう。
氷川 『宇宙戦艦ヤマト』放映が始まったのは1974年10月6日で、そのとき私は特撮のほうに惹かれていたので、もうひとつの裏番組『猿の軍団』を観てしまいました。SF作家の小松左京、豊田有恒、田中光二という強力な3人の原案で、円谷プロダクションが制作した作品です。巨大ヒーローが出てこない、「SFドラマ」と肩タイトルのある番組です。
三好 映画『猿の惑星』がヒットした後でしたからね。
氷川 そこからは5~6年経っていますが、内容的にも『猿の軍団』と『ヤマト』は表裏の関係にあります。人類が滅びてしまった世界が『猿の軍団』。滅びる寸前の世界が『ヤマト』。当時は終末ブームだったからです。1973年末に公開された映画『日本沈没』(原作は小松左京の小説で2百万部以上のベストセラー)、未来への警告として書かれた『ノストラダムスの大予言』(五島勉著のノンフィクション。こちらも2百万部発行)など出版物が世間を騒がせていました。しかも『日本沈没』は、円谷英二特技監督の死後(1970年逝去)、初の大規模、かつ怪獣の出ない東宝特撮としてつくられました。『日本沈没』と『猿の軍団』と『ヤマト』はともに「世界の滅び」を描いたという点で、文脈的にも通じているわけです。
三好 そういう時代だったんですね。
氷川 終末ブームとオイルショックで日本の再興を支えた科学文明にも頭打ち感が出てしまい、社会的な危機感が日本社会に蔓延していました。そんなとき、青少年に向けて「君たちにも、なにか出来ることがあるのではないか」というメッセージを込めてつくられたのが『猿の軍団』や『ヤマト』でした。それで問題は、1974年の11月3日です。ちょうど45年前ですね。そのとき、第2回日本SFショーというイベントが世田谷区民会館で開催されました。
三好 それはファンの集まりでしょうか。
氷川 日本SF大会はファンが主導して作家を招待するコンベンションですが、対する日本SFショーは「プロが主催するイベント」なんです。当時日本テレワークというテレビ番組制作会社、アウトソースの草分けで『ひらけ! ポンキッキ』という児童向けバラエティを作っていた野田昌宏さん(日本にスペースオペラを翻訳・紹介した中心人物)も、メンバーでした。『ヤマト』の設定はスタジオぬえが担当していましたが、『ポンキッキ』にも動く仕掛けがあるイラストを提供していたんですね。そのつながりもあり、そのSFショーで『宇宙戦艦ヤマト』の第1話が16ミリフィルムで大スクリーンに上映されたのです。
そもそもなぜ第2回SFショーが11月3日に開催されたかというと、『ゴジラ』(1954年公開)の成人式が第1部だったんですね。第2部は『小松左京ショー』です。これで分かるとおり、当時はまだ特撮とアニメの映像ジャンルは不可分であり、それをSFがつないでいたのです。1日に『ゴジラ』と『ヤマト』の2作品が大画面で上映されたわけです。なので『ヤマト』第1話との出会いはテレビではなく、フィルム、つまり映画としてだったんですね。鼻血を出す思いで隅々まで脳に焼きつけながら観ました。
三好 大画面で観ると鼻血が出ますよね。
氷川 その興奮が冷めやらぬまま、11月末か12月の頭に、東京練馬にあった制作現場に見学と称して友人たちと押しかけることになりました。高校2年だったので、ご迷惑を顧みなくお恥ずかしい次第ですが、若気の至りということで……。
三好 『ヤマト』第1話で古代と島が飛び出していったように。
氷川 まったくそんな感じですね(笑)。

●特撮的な技術と発想による
『ヤマト』の映像

氷川 当時まだアニメ誌がなかったので、アニメをどのように制作しているのか、ごくおぼろげな知識しかありません。「セル画に色を塗って1枚ずつ撮影して作る」ぐらい知ってはいても、細かい部分は何も分からないわけです。会社としてのビルがあるかと思って行ってみたら、住居用と事務所用のマンションで作業をしていたのに、まずビックリしました。演出ルームも畳敷きですが、棚がズラッと並んでいて、ものすごい量の紙の束が積んであるんです。それが初めて見た設定資料、その原版でした。そういうものがあるということ自体が知られてなかった時代に、第一艦橋のメーターやレバー類など、とても細かく描かれていて感激しました。波動エンジンの説明にしても、どのブロックが何なのかとても細かく機能が書かれている。つまり適当に思いつきや雰囲気で描いているのではなく、まず設計図があるんだと。それを大勢のスタッフが共有して、さらに描写を積み重ねていく。そうやって根拠を重ねて生まれていった映像だから、先のエンジン始動シーンもすごくなったわけだとショックを受けました。つまり「すごいものにはそうなる理由がある」という具体的な根拠を肌身で感じたんです。
三好 それを生でご覧になった。
氷川 そうです、生原稿の迫力、質感、ディテールも大きかったです。そしてチーフディレクターの石黒昇さんが親切な方で、その後ずっと行くたび僕の相手をしてくれたんです。生涯の恩人です。石黒さんがもともとアニメーターを目指してこの業界に入ったきっかけは、ディズニーの『眠れる森の美女』でした。それは最後のハンドトレス作品であるだけでなく、エフェクト・アニメーションが優れているからだと。そんな説明から、『ヤマト』における爆発や光線などのエフェクトが特別なものに見えるのは、石黒さんの感覚で作られていたことが分かったんです。
そもそもディズニーはクレジットにもきちんと「エフェクト・アニメーション」を載せている、それに凝ると作品がリッチになることを知っていた、中でも波のエフェクト作画が描いていて面白いこと等々、石黒さんの源流にある体験をいろいろと教えていただきました。この時の談話が「エフェクトアニメ」に関心を深めたきっかけです。ヤマトは重たいものだから、線が多くてもゆっくり動かす。だけど、それってアニメでは自殺行為なんだよね、とも笑っておっしゃっていました。
三好 ですよね。
氷川 遊星爆弾の撮り方についても、クレーターの光の部分をマスクして透過光を合成して撮影しているとか。そして第3話ラスト、ヤマトがゆっくり手前に向かっていくシーンでは、スキップ撮影という特殊な処理をして、オプチカルプリンターで合成したと聞いて心底驚きました。「えっ? アニメなのに特撮と同じ手法で作っているということ?」という衝撃です。オプチカルプリンターと言えば、円谷英二特技監督が資金のアテもないのに当時4千万円もする最新鋭機を買った結果、『ウルトラQ』がつくられるきっかけになった、伝説の合成機材です。自分は同じ1974年の夏から円谷プロにも出入りするようになり、「怪獸倶楽部」という故・竹内博さんが中心となった団体にも接触し始めていました。怪獣映画がまだ文化的に認められていない時代に、研究を進めている先達たちとも知り合い、「理由があるはずなら、それを知りたい」と感じ、資料を自ら探すようになります。さらに、映画館やテレビから写真を撮って自分で現像焼き付けをし始めた時期と重なっています。
三好 アニメと特撮が今よりも密接だった頃ですね。
氷川 『ヤマト』の資料についても思い出があります。アニメ会社は大きなビルを建て、その中で流れ作業的に作っているという印象が強かったのですが、『宇宙戦艦ヤマト』は違いました。西﨑義展プロデューサーの独立プロダクションのスタジオですから、テレビシリーズ終了後はスタジオを解散することになったんです。家賃も人件費もかかりますからね。そこで廃棄される予定の資料をお願いして、もらいに行きました。
三好 棚にすごい量の紙の束があったというアレですね。
氷川 それは原版ですから残されますが、スタジオでは設定資料や絵コンテのコピーを大量に作るし、原画類はフィルムが完成すればゴミという感覚でしたから、本当に必要最小限の物以外は捨ててしまう。産業廃棄物になってしまうわけですね。
三好 アニメは膨大な紙のもとに生まれ、膨大な紙はゴミとして捨てられる。そんな時代があったんですね。
氷川 いまでも捨てられていると思います。セルは後に価値が出ましたが、それまでは撮影済みのセル画を畑に埋めて怒られたという都市伝説もあるぐらいで(笑)。
三好 『ヤマト』の資料が捨てられると聞いた氷川さんは、どうしたんですか。
氷川 資料には、完成フィルムからだけでは分からない重要な情報が沢山あります。検証するための証拠品、一次資料、いわゆるエビデンスとして、スタジオで使われていた資料は膨大な量のビハインド情報を含んでいるのです。これが散逸するのは大きな損失だという想いで、保存を申し出ました。この資料群に接したこと、高校のころ他人に頼らず自分で解析したことは、アニメを研究する上で大変有用な経験になっています。それから45年も経ちました。自分の命もいつまであるか分からないし、周りの方々が急に亡くなる状況も続き、自分が懸命に保存してきた物も含め、これは何かしないと作品資料を将来に残すことが出来ない。そう痛切に感じ始めたわけです。
三好 そうした「つくり手の魂」がこもった物を残そうという想いが、我々のアーカイブ活動に活かされています。

●空想力を刺激、触発する点で
映画らしい映像テイスト

三好 話題を『ヤマト』に戻しましょう。今日上映した1~3話を改めて観て、どうでしたか。
氷川 オリジナルに近いビデオ素材が流れたことに、まず驚きました。今発売されているHDリマスターのDVDとブルーレイは全話が後期オープニングに差し替わっていて、曲調が勇ましいほうになっています。他にもいろいろ修正されているのですが、今日上映されたのは、DVDの最初のBOX版を作ったときのマスターだと思います。傷がついていたり、多少ピントが眠かったりする部分も含め、当時スクリーンで観た感覚がよみがえりました。小さなテレビで観ると、この感じって出ないんですよ。
三好 イチ押しの見どころはどこでしょう。
氷川 1話の最初のツカミ、いきなり作品に引きこむところです。あの『機動戦士ガンダム』でさえ、世界観の説明から始まりますが、『ヤマト』にはそれがないんです。
三好 いきなり戦闘シーンから始まるので、観ている人は面食らったと思います。
氷川 ええ。何が何だか分からない。しかも負け戦から始まります。普通の番組だったら「『宇宙戦艦ヤマト』とは何か、なぜ誕生したか」とか「敵はこんな異星人だ」と説明してから、最初のバトルを始める。ないし戦闘の中で説明するところですが、いきなりヤマトの出ない艦隊戦が描写されるわけです。おそらくあの冥王星海戦は日露戦争のメタファーだと思います。映画だと円谷英二特技監督の遺作になった『日本海大海戦』で、そこも特撮につながっています。
主に沖田艦の艦橋にカメラを置いて、沖田艦長を中心とするクルーの主観的な視点で描かれています。中でも照明が落ちて真っ赤な非常灯に切り替わるシーンがありますが、実際に潜水艦が緊急潜航する時など、視認性を良くするために赤いランプに切り替えると聞いていたので衝撃でした。カラーテレビ普及のピークが1972年、『ヤマト』は1974年作品ですから、「色を使って表現力を高めよう」と思っていたのかもしれません。ただ、こんなモノトーンの効果を使うとチャンネルを変えられる恐れがあるのに、それでも強行して集中力を喚起している。そんな部分も「映画らしい」わけです。
三好 そして地球も赤いです。
氷川 そうです。第1話もBパートになると艦隊全滅どころではなく、人類滅亡の危機に瀕しているという衝撃の情況が描かれます。そこに至り、初めて「どうしてこうなったか」世界観の説明が入るわけです。1話の最後のほうには「放射能除去装置が欲しければ、14万8千光年を飛んでこい」と、地球が滅亡しそうなのに、さらなる無茶ぶりをされてしまう。小さなところからどんどんスケールが大きくなっていくので、クラクラするところが、最初の3話のみどころではないでしょうか。ちなみに劇場版の冒頭だと、ガミラスに狙われていて地球が遊星爆弾で滅亡寸前だという「説明」から始まります。確かに分かりやすくはなったけれど、映画的な体験性は消えてしまいました。
三好 この『宇宙戦艦ヤマト』1974年のテレビシリーズ26本は、アニメ史においてどのような存在になったのでしょうか。
氷川 やはり「以前・以後」で語られるエポックだったと思います。今作品を手がけているアニメクリエイターで50代60代の人たちは、かなりの割合で『ヤマト』を観てからこの世界に入ってきています。当時10代後半の人たちに、今アニメはここまで来ているぞ、アニメってこの先すごい未開の土地がありそうだ、アニメを観るのも面白いけれどつくってみないかと、いざなうようなインパクトを与えたのが『ヤマト』でした。まるでイスカンダルからのメッセージみたいに、行動を喚起する力があるんですね。それが一番大きい影響だったと思います。
もう一つは描写の緻密さです。第一艦橋が典型ですが、「アニメでここまで描かなくていいのに」とさえ思わせる密度感やリアル感です。アニメは本来「誇張と省略の芸術」ですが、その表現レベルを押し上げた作品です。映画では「神は細部に宿る」とよく言われますが、そういう感覚を一段と高めました。もちろんこれより前に『科学忍者隊ガッチャマン』をつくったタツノコプロの一連の作品等もありますが、『ヤマト』はケタが違っていました。
三好 リアリズムを更新したわけですね。
氷川 それは主に手間と時間とお金に跳ね返ってくるので、テレビシリーズの制作現場は大変なことになりました。『ヤマト』はクリエイターたちの時間と頭脳と労力を使うことで、レベルを上げていきました。往復29万6千光年の旅を終えて、ヤマトもボロボロでしたが、スタッフもボロボロになったんです。
三好 映像としては、どこがみどころですか。
氷川 遊星爆弾が爆発したときにピンクの光がふわっと拡がるところ。あれは普通の透過光の撮影技法ではないんです。庵野秀明さんが『超時空要塞マクロス』の原画に入ったとき、石黒昇さんが監督ですから、質問して聞き出しています。絞りとピントを同時に操りながら、「適当にやる」と(笑)。ところがこのファジーでアナログな「適当」がデジタルでは難しいんですね。「適当風」になってどこかキレイで、あの臨場感は出にくい。
三好 デジタルで追いつかない技というのはあるんですね。
氷川 2話と3話で、大量に使われている「波ガラス撮影」もそうです。歪んだガラスを通して撮影することで、ヤマトが爆発の中から出てくるような、空気がモヤモヤするシーンが作られました。今日、クレジットに名前が出ていた撮影の高橋宏固さん……出崎統監督の作品で有名な方ですが、その高橋プロダクションの後継のT2という撮影スタジオで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の取材をしたとき、撮影監督の福士享さんからこんな話を聞きました。演出さんから“波ガラスのような処理を”と言われるけれど、どうしてもあの感じにならない。コンピュータで歪めると「そう演算している」になってしまうわけです。ガラスを光を間に通してフィルムに撮ると、アナログですから、突然ポンと飛んだり、思わぬところが急に見えなくなったりして、それで自然に見えるわけです。
三好 アナログの技は今でも貴重なんですね。
氷川 職人の技だし、日本人っぽいところもありますね。デジタルでやればもっと綺麗に出来るけど、上手くいってないところ、適当な部分も含めて味になっています。
三好 話は尽きないのですが、大事なことはだいたい語られた気がします。ここで皆さんから氷川さんにご質問があれば、受けたいと思います。《間》 大丈夫でしょうか。
氷川 それでは、みどころをもう一つ。
三好 なんでしょう。
氷川 アナライザーのセクハラ描写ですね(笑)。「ああ、今はもうこんな描写はできないな」と思って観ていました。
三好 1974年制作ですから、皆さん大目に見てください。
氷川 『ヤマト2199』のスタッフに、「今回のアナライザーってセクハラしないんだ」とツッコミを入れたら、怒られてしまいました。
三好 子ども心には一服の息抜きシーンでした。
氷川 そういう点含めて「大人がつくっている感じ」がします。酒と煙草と色事のニオイが漂っています。劇場版ヤマトのヒットで、現場に大量の若手スタッフが入りました。それは功罪半ばで、どうしても「アニメ好きが作っているアニメ」な感じが出ることが多くなりました。新しい表現が出てくるという点では、それも決して否定は出来ないのですが、『ヤマト』は「半分テレビまんがで半分新しいことをやっている」という絶妙なバランスも良かったと思います。
もう一点、『宇宙戦艦ヤマト』は太平洋戦争からまだ30年経っていない1974年に放送されました。戦艦大和の時代と『宇宙戦艦ヤマト』の時代(29年)、『宇宙戦艦ヤマト』の時代と今(45年)と比べると、後者のほうがはるかに開きが大きいわけです。ただし『宇宙戦艦ヤマト』は「戦争のリフレイン」が目的ではありません。戦争で経験した事物や技術、その平和転用の時代だということと、未来への希望が強く伝わってきます。題材から戦争賛美的に受け止める方もいますが、そうではなく、反戦メッセージが強く出ているなと、今回も強く感じました。戦前生まれの人たちが多く参加している作品ですから、そういう願いが込められていると思います。
三好 皆さん、全26話のヤマトの旅、チャンスがあったら全話ご覧になっていただきたいと思います。そこからまた『ヤマト』から影響を受けたクリエイターたちが創った次の世代の作品へと歴史をたどるような見方をされると、また面白いと思います。
氷川 第3話で「世界中から電気が集まっています」というシーンって、『エヴァ』のヤシマ作戦かなあとか(笑)。
三好 うちの理事長も影響を受けまくってますね(笑)。それはリスペクトして、継承しているということですね。『ヤマト』を熟知することで、『エヴァンゲリオン』がもっと面白くなると。
氷川 それはあると思います。
三好 『シン・ゴジラ』ももっと面白くなるかも。もちろん『ガンダム』やその他、『ハイジ』を観るときに、「ああ、この時代にこういうことがあったのか」と考えながら観ると、歴史を補完したような見方もできると思います。
氷川 「ヤマト流」や「ハイジ流」などいいところを持ち合わせた、現代の作品も数多くあります。ハイジ流の特徴は、ジブリ作品経由で拡がったものです。
三好 ……というところでお時間でしょうか。
氷川 ありがとうございました。

初出:氷川竜介『ロトさんの本Vol.42 宇宙戦艦ヤマト 1974 全話解説 放送開始45周年記念』(2019年12月31日/個人誌)