【2006年10月17日脱稿分に加筆】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)

 

TVアニメ『機動戦士ガンダム』の大きな功績のひとつに、漫画や小説など既存の「原作」をもたないオリジナル作品の可能性を切りひらいたことが挙げられる。元来、TVという媒体は電波それ自体が「地域と時間を支配する」という非常に高いバリューをそなえているため、放送される番組にも高い商業的価値が要求される。半世紀を超えるTVアニメの歴史を通じ、伝統的に「原作つき」のTVアニメが多いのも、すでに売れた実績があって価値が認められた企画のほうが通りやすく、ビジネスにも結びつきやすいためである。

作品それ自体がDVDやBlu-rayなど直接的な商品となる現在、TVを通じてオリジナルアニメが流れることは珍しいことではなくなっている。だが、それも『ガンダム』の商業的成功に負う部分が大きい。まだプラモデルというヒット商品が出ていない本放送当時、そのオリジナリティへの評価はまず「ドラマ部分」から始まった。

では、その「ドラマ主義」とも言えるオリジナルアニメへの道筋とは、どのようにして開拓されてきたものなのだろうか? その探究には、原作・総監督を担当した富野由悠季がたどってきた履歴を考えることが重要となる。

富野監督が最初に手がけたアニメ作品は虫プロダクションの『鉄腕アトム』(63)で、ストーリー性のある初の30分TVシリーズである。長期にわたる放送の2年目後半になるとすでに手塚治虫による原作は払底し、シナリオライターや演出家によるオリジナル作品が中心となり始めていた。その2年目から参加した富野の演出デビュー作の第96話「ロボットヒューチャー」もそうした作品のひとつで、脚本・演出を同時に手がけている。これは予言的な能力をもつロボットの悲劇を描いたエピソードで、深読みが許されればニュータイプにも通じる部分をすでに描いている。

このようにして出発点においてオリジナル開発の面白さに目ざめた富野監督は、機会さえあればオリジナルのドラマを紡ごうと思ってきたはずである。その姿勢は同じ手塚治虫原作の『海のトリトン』(71)で顕著になる。このTVアニメは「原作を改訂してもいい」という前提で富野由悠季がチーフ・ディレクター(総監督に相当)を担当。その最終回は、驚愕の逆転ドラマ展開で当時の視聴者の心に斬りこみ、重い感銘を残した。それまで悪だと思われていたポセイドン族側が実は被害者であり、主人公のトリトンは意図的ではないとはいえ、その一族を全滅に追い込んでしまう。この「ジェノサイド的な重み」もまた、『ガンダム』の戦争に通じるものだ。

60年代から70年代にかけ、富野由悠季は絵コンテマン・演出家として数々の作品に携わる。中でもオリジナル作品の追及において『ガンダム』への影響大と思われるのは、竜の子プロダクションによる一連の作品だ。『科学忍者隊ガッチャマン』(72)と『新造人間キャシャーン』(73)『破裏拳ポリマー』(74)など等身大ヒーローの活躍する一連の作品群は、いずれもTVアニメ用のオリジナル作品で、富野が各話演出のローテーションに入っている(多いときは約4本に1本)。竜の子プロ時代の中村光毅の美術、大河原邦男のメカとの出逢いもあったはずだし、SF的で大スケールを備え、時として挽歌的な世界観で展開する濃厚なドラマの可能性を、各話演出の立場ながら見ていたはずだ。

さらに富野由悠季は1975年にはサンライズの前身である創映社サンライズスタジオで『勇者ライディーン』の総監督を担当する(シリーズ前半、後半は長浜忠夫が担当)。あらためて安彦良和の美麗なキャラクターと作画を得て、ファンタジー的な独特の世界観とロボット戦闘を展開した同作では、玩具メーカーと組んだTVアニメ用オリジナルアニメの開発を経験している。

こうした遍歴が総合的に結実したのが、サンライズ最初の自社作品『無敵超人ザンボット3』(77)であった。富野由悠季はこの作品から総監督だけでなく「原作」とクレジットされるようになる(鈴木良武と連名)。本作では宇宙人が侵攻してくる異常事態を「戦争」に近しいものと規定している。巨大ロボットとメカ怪獣が対決すれば両者ともに人家を破壊し、焼け出された人間が難民化する。さらに最終回では『トリトン』の再演的に善悪を相対化し、人間の側に刃をつきつけるというドラスティックな作劇を行った。「そこに正義はない」という驚くべき現実認識に基づいたロボットアニメの具現化に、青年、大人へと成長しつつあったアニメファンの側も、オリジナルの可能性を見たのである。

『機動戦士ガンダム』のもつ求心力は、こうした数々のドラマ主義的な諸段階を踏まえたものなのだ。しかも一歩ずつ確実な手応えとともに培われたもので、決して突然出てきたものではない。その追求には「既存原作をもたないオリジナルの可能性」への厳しい姿勢が共通してあったと言える。

付け加えれば、富野由悠季が絵コンテで参加した『アルプスの少女ハイジ』(74)や『母をたずねて三千里』(76)といった名作アニメも、この件を考える上で重要である。高畑勲監督の演出、宮崎駿による場面設定(レイアウト)により、リアルな空間とディテール豊かな時間の積み上げによって、生活感あふれる日常描写や人物造形、感情の推移をTVシリーズでも描くことが可能であると実証された作品だからだ。その表現技術と姿勢が、『ガンダム』にも多々継承されているわけである。そして『ガンダム』放映中も、高畑監督の『赤毛のアン』の4本に一本は富野コンテである。

『ガンダム』の特徴は「ロボットをモビルスーツという兵器と捉えなおし、リアルな戦争を描く」と、よく言われている。しかしこのように展開してみると、連綿と続いてきたアニメとしてのオリジナル追及、ドラマ主義の積みかさねの果てに獲得された結実であることがわかる。特に劇場版ではなく、TVシリーズ『ガンダム』の方が「オリジナルの血脈」がより生々しく浮かびあがるはずだ。

時にこのような歴史的文脈を念頭に置きながら、『ガンダム』の体現しているオリジナリティの示すもの、あるいはいまだ実現されていない可能性に、ぜひとも注目してほしい。

(敬称略:「富野喜幸」は現名義の「富野由悠季」に統一してあります)