現実世界とファーストガンダム 第12回(最終回)「アフターTV」総括
2022.9.30【2006年12月5日脱稿】初出:配信『機動戦士ガンダム』用原稿(サンライズ)
1980年1月26日、『機動戦士ガンダム』TVシリーズの放映は終了した。それ以後の動きを1980年の流れを中心として総括的に述べることで、本連載の締めくくりとしたい。
まず、「ガンダムは本放送では不人気だった」とマスコミに書かれがちだが、それは事実と異なっている。テレビシリーズの終盤近くでは、すでに中高生を中心として人気が確立していた。1979年12月20日にはサンライズからハードカバー上製本の「ガンダム記録全集」(全5巻)が発刊され、放送終了直後の1980年3月21日にはドラマ編アルバム「アムロよ…」(キングレコード)がリリースされているのが何よりの証拠である(アルバムは筆者の構成だが、セカンドアルバムがヒットしたので最終回以前から作業はスタートしていた)。放送終盤、かなりガンダム熱が盛り上がっていた証拠はいくつも存在する。
玩具商戦の不振により1年(全52話)の予定から全43話へ放映期間が短縮されたのは事実だ。当事者がこれを「打ち切り」と言うのは無念をこめての表現だからやむを得ないが、外部から見た場合は留意が必要だ。なぜならば同じ名古屋テレビの時間枠の流れでは『無敵超人ザンボット3』(’77)が全23話、『無敵鋼人ダイターン3』(’78)が全39話と、前2作の放送期間はいずれも1年に満ちておらず、実は『ガンダム』こそが3作で最長なのだ。年末年始商戦は乗りきったから「全43話まで引っぱった」のであり、物語的にもきちんと終わらせている。筆者は「放送期間短縮」という言い方をするようにしている。
1980年2月2日からスタートした後番組は、徹底した子ども向け路線の『無敵ロボ トライダーG7』(監督:佐々木勝利)である。これは中小企業の社長で小学生の竹尾ワッ太を主人公に、業務のためロボットに乗るという児童の夢をかなえるような設定の作品であった。この番組枠で念願の1年間の放送期間を成就し、以後は4クール構成がずっと続いていく。
ガンダム終了直後の富野由悠季監督は『トライダーG7』、『ザ・ウルトラマン』、『宇宙大帝ゴッドシグマ』などの作品に絵コンテで参加し、5月8日スタートの新番組『伝説巨神イデオン』を立ち上げている。宇宙の植民星に突然異星人バッフクランが襲撃、第6文明人の遺跡と思われたものが変形合体してロボットとなって戦い、ソロシップという宇宙船で避難民が追っ手から逃げるという物語だ。無限のエネルギー“イデ”を巡って争いが争いを拡大するシリアスなSF戦争ものとして、今風の言い方をすれば「ポストガンダム」として注目された。
イデオン放送と平行し、『機動戦士ガンダム』は再編集をベースとした劇場映画化への道をたどり始める。ハイターゲット向けビジネスモデルに先鞭をつけた『宇宙戦艦ヤマト』のブームも、1977年にTVシリーズ全26話を2時間半に再編集し、映画化したことがきっかけだった。「ガンダムも映画化を」というのは当然の筋道だが、ヤマトとは大きく異なる挑戦がここに生まれる。それは、オリジナルの印象を損ねないよう、三部作の長尺で公開するというリスクの大きい大胆な構成であった。当初は四部作構想が雑誌「アニメージュ」(徳間書店)に発表されたが、三部作となったのは『スター・ウォーズ』の影響であろう(同タイトルの公開第二作『帝国の逆襲』は1980年の公開)。それほどスタッフはTVシリーズに自信と愛着をもっていたし、なるべく「ファンの愛したもの」に近いものを映画として届けようとしたわけだが、これが後々大きな意味をもつようになる。
映画化に際してはオリジナル要素を尊重することと同時に、さまざまなかたちで増補改訂が行われている。映画的な時間の流れを重視し、複数イベントをまとめてストーリーラインを主人公のアムロ中心に寄せて再構成している。さらに玩具セールスの枠組みから離れたことで、武器・兵器設定を修正してリアルな語り口に近づけた点も大きい(ガンダムの活躍シーンも、量的・質的に抑制されている)。作画面では、TVシリーズを途中で病気降板した安彦良和の回復を待ち、大幅な修正や追加が行われていった。特に第二作「哀・戦士編」からは「撮り足し」に相当する新規シークエンスが増え、斬新さも加わっていった。
放送終了後では異例のこととして、第2の玩具展開がバンダイによってプラモデルというかたちでスタートした(同年7月)。当初は「ポストヤマト」的に、ムサイやホワイトベースなど戦艦類が本命と思われたが、意外にもガンダムやザクが大ヒッする。しかも合体ギミックをオミットして可動とプロポーションを重視した1/144ガンダムが爆発的に売れたことで、まったく新規の市場があることが判明する。
なんと言ってもプラモデルは合金玩具と違い、「塗装」「改造」によってユーザーがオリジナリティを発揮できる点が大きな価値を生んだ。すでに大河原邦男が豪華本やムックに発表したイラストには、アニメーションでは表現困難な渋い戦車のような色合いやマーキング等のディテールが描かれていた。これがミリタリー系モデラーの制作意欲を刺激したのである。こうした経緯で、プラモデルという2次的な表現媒体が「ガンダム世界観を補完・拡張する」という作用をもたらし、ガンダムは前例のない「ユーザー参加型コンテンツ」に育っていったのである。
1980年9月5日には本格的クラシック編成にアレンジしたアルバム「交響詩ガンダム」がキングレコードからリリースされ、ガンダム音楽の魅力を拡大。また、アニメムックを中心に関連書籍が発売され、プラモデルについても改造例や未商品化のフルスクラッチ作例が続々と模型雑誌に掲載されていったことで、『ガンダム』人気は沸点に近づいていった。
すべてのムーブメントが1981年2月22日、新宿ALTA前広場に1万5千人のファンを集めての「アニメ新世紀宣言」で一気に集約し、そして1981年3月17日――満を持しての映画公開へ向けて加熱するように動いていった。ファンが長蛇の列をなす動員のすごさはマスコミにも大きく報じられ、ブームの起爆剤となっていく。
こうしたTV放映後の1年余りの動きをみるときには、フィルムも二次の世界(出版や模型、音楽)も、すべて同調しながら「ガンダム」という新たな要素に接し、自ら新たな要素を発信しながら、「ガンダム世界」の自律的な拡大の基礎を築いていったことに注目してほしい。こうしたなかば無意識的な同調による開拓の連鎖こそが、当事者のひとりでもある筆者にとって重要であった。
総じて言えば、ガンダム文化が40年近くも続いてきたことに関する要因は、概してこの1年間にルーツを見ることができる。そしてその時点では『ファーストガンダム』が決して完成形ではなく、大勢が参加する余地があったことを、強調しておきたい。
多くの初期支持者が、特に言葉を交わさないのに互いにフィードバックを重ねながら、自然にわかりあっていた。時に対立することがあっても、対立のベースは共有していた。そして自己増殖可能な形で刺激しあい、常に進化し続け、ともに成長するスキームを自然発生的に獲得していったのである。「送り手と受け手」が共振し、ともに手探りの中で『ガンダム』に関する共通認識を獲得していく……このプロセス自体が、フィルムを離れて現実世界との間で起きる「もうひとつのドラマ」だったと、振り返って思う。それは「現実世界でのニュータイプ的な出来事」と換言することも可能ではないだろうか。
この連載では、放映当時の状況について現実世界と多角的にリンクさせながら述べてきた。それは当時、そうした多面的な状況が随所にあり、それが有機的に積み重なって「現在にいたるかたち」になるプロセスを、筆者がリアルタイムで目撃してきたからだ。すべての様相を伝えるのは難しいが、少しでも今に役立てるかたちで伝えることには、意味があると思った。
現在、非常に莫大な価値と富を生み出す『ガンダム』は、だが、決して「優良コンテンツありき」で発進したものではない。むしろマイナーで無視され踏みつけられ、「こんな前例にないものは売れない、悪だ」とまでされるような、常人ならくじけてしまうような「どん底の状況」があった。それでもともに信頼し成長する関係性を獲得し、それを信じる人たちの中で育てられ、時間をかけて華開いていったというプロセスが、そこに確かに存在した。
こうした「現実世界とも地続きとなったニュータイプ的世界観」が「ガンダム的なコンテンツ」の正体である。
そんな奇跡的なプロセスに至るメッセージとヒントは、原点のTVシリーズ『機動戦士ガンダム』の随所に埋めこまれている。受け手それぞれが社会的な役割をはたす中でさらなる成長を望むとき、このフィルムは格別の味わいとともに多くのことを改めて語り、気づかせてくれるだろう。心いくまで何度でも楽しんでほしい。観るたびに新たな発見のあるフィルムは、そうそう他にないのだから。
この関係性の価値が多くの人に伝わり、次なる進化を始めたときに『ガンダム』は初めて「古典」としての不朽のポジションを獲得できるに違いない。
【完】(敬称略)